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私の政治手法と町づくりへの思い

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年7月18日

広島県府中町長 和多利義之

府中町は、広島市に囲まれた10.45平方㎞の町域に5万1,000人が暮らす、全国でも一、二位を争う人口密度の高い町です。又、明治時代に町村制が施行されて以来、一度も分離・合併を経験したことのない町でもあります。
この地理的要因がもたらした合併論議を通して町づくりの所感を披瀝したいと思います。
私は、昭和51年に町議会議員に当選して以来、議長11年6月間を含め6期23年6月間、議会人として政治に携わっていました。
当時は、6期を最後に引退し、趣味と実益を兼ねた農業に勤しみながら過ごしたいという願いを持っていました。
ところが、6期も2年を経過した頃、町内有志の方々から、再三にわたり次期町長選への出馬要請を受けました。そのたびに「その器ではない。」とお断りしていましたが、ついには「後援会事務所も借りた。もう嫌とは云わさない。」とまで言われ、本意ではありませんでしたが、出馬の意を固めたものでした。
こうした経緯で、平成12年5月の町長選に臨みましたが、おかげで無投票当選させていただきました。
当時、バブル経済の崩壊後の厳しい財政環境の中、高度成長型の行政体質を安定成長型に変えることが喫緊の課題と考え、抜本的な行財政改革を断行することにしました。
維持管理費の縮減、ごみの収集や学校給食調理業務の民間委託、事務事業の見直し等々徹底した改革に取り組み、その成果により街路事業、公共下水道事業、土地区画整理事業や多目的ホ―ル・図書館を併設した生涯学習センタ―など遅れていた都市基盤を年次的に整備し、順調な町づくりを進めています。
とは申しても、ここまですべてが順風満帆だったわけではありません。最大の出来事はなんと言っても平成の大合併です。
平成13年当時、国を挙げて合併の論議が行われていましたが、広島県は、道州制を見据え合併を強力に推し進めました。
当町へも、広島市との合併へ向け強力なアプローチがありました。又、それに輪を掛けるようにマスコミ報道が過熱化し、合併を推進する住民と望まない住民との間で町を2分する激しい運動が展開され、平成14年には合併推進団体の請求により、合併の是非を問う住民投票が行われました。結果は、合併に否定的な声が多かったものの僅差であり、決着は平成16年の町長選を待つこととなりました。
町長選では、合併推進団体の代表であった新人候補と合併に反対の立場をとってきた私の一騎打ちとなり、激しい選挙戦の末、2期目の当選を果たしました。この結果を踏まえ、広島市と府中町は合併協議会を廃止し、ここに合併問題は決着しました。
私が単独自治を選択した理由は、一つには、政令市制度は、「県」の中にもうひとつ「県」が有るような制度で、けっして効率的行政にはつながってこないという考えを持っているからです。
二つには、長年培ってきた地域コミュニティの崩壊の危惧でした。政令市との合併は、大きな自治の中に埋没し、府中町の良さが失われてしまうと考えていました。
三つには、昭和の大合併や広島市の政令都市昇格時の周辺合併の際にも、住民は単独自治を選択しており、その意識は大きくは変わっていないと感じていたことが挙げられます。
平成の大合併は、平成22年3月に一応の終焉をみていますが、広島市に囲まれ、広島都市圏の一翼を担う地理的要因から、いずれ合併問題が再燃しないとも限りません。
しかしながら、単独自治を選択した基礎自治体として、権限移譲の受皿となり得る組織・体制を整え、住んでよかったと実感できる町づくりを一層推し進めていきたいと強く思っているところです。