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「勇気 与えし者」

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年5月30日

愛知県阿久比町長 竹内 啓二

私が学生だった頃、我が家には雑種の白い犬がいました。
私の住んでいる阿久比町は伊勢湾に突き出た愛知県の知多半島にあり、5市5町の市町がありますが、唯一海に面していない町です。中心に阿久比川が流れ、昔から米どころとして稲作が行われています。また、現在は名古屋に近いこともあり、団地開発が進みベッドタウン化し、人口2万6千人ほどになりました。町は半島の内陸部にあるので津波の被害は経験ありませんが、集中豪雨による阿久比川の氾濫などで、たびたび水害に見舞われてきました。我が家も昭和49年と昭和51年に被災し、激甚災害に指定され自衛隊の救援も受けましたので、今回の東日本大震災の状況を映像で見ると、過去の避難生活や復興の辛さが思い出され胸が締め付けられます。東日本の皆様に心からお見舞い申し上げると共に一日も早い復興をお祈りいたします。
昭和51年9月12日の集中豪雨の恐怖は一生忘れることが出来ません。私の家は知多木綿の織布業を営んでいましたが、昭和49年にも被災しているので、工場の製品をトラックに積み込みをして、土嚢で浸水を防ぐなど一昨年の洪水の被災経験を生かして避難をしていました。しかし、この経験に沿った判断が後に被害を大きくさせてしまいました。前回の洪水の水位が壁に痕跡として残っていたので、痕跡を基準にして避難していたからです。後で経験に頼りすぎることへの危険さを学びました。
工場内の排水枡が逆流を始め、いよいよ浸水が始まりました。浸水の場合、床上か床下かでは被害に天と地ほどの違いが生じます。また、被災者にとっては覚悟を決めなければならない決断の時であると思います。物から人命へと避難を切り換える分岐点が床上に浸水し始めた時であるからです。家族も畳が浮き始める中で2階へ避難しましたが、その時に外で犬の鳴き声がしました。避難に追われ、庭で鎖に繋がれている『シロ』のことをすっかり忘れていたのです。慌てて鎖を解いて逃がすのが精一杯でした。2階に避難していると階段を一段一段と泥水が上がってきます。梁に達した時点でもう1階に下りることは出来ません。前回の水位を越して泥水が上がり続けていました。階下で冷蔵庫が倒れる音が聞こえた瞬間、シロの鳴き声が聞こえました。泳いで逃げたはずのシロが、家族の声がする真下の部屋にまた舞い戻ってきていたのです。しかし、どうすることも出来ず「シロ、シロ」と名前を呼んでやることしか出来ませんでした。
夕方になると、2階にまで泥水が達しました。暗くなると電線にかかり救助艇が出せなくなるからと、強制避難を命ぜられ屋根からの乗船を余儀なくさせられました。名前を呼んでもその時にシロの声はありません。家族は無言で救助艇から水没していく我が家を茫然と眺めていました。あたりはまるで湖。水面上には三角形の屋根と電柱が樹立し、電線が手の届く位置で五線譜のように走っていました。船上での今は亡き父の苦渋に満ちた顔が印象強く記憶に残っています。
親戚の家に避難して3日目に、自衛隊の船で私が家を見に行くことになりました。工場は機械も製品も全滅、家も悲惨なもので壁は落ち、縁側の戸は全て庭に横たわっています。家財も倒れ、多くのものが外に流されていました。仏間の仏壇も無残な状態でした。そして居間に入ったとき、我が目を疑いました。浮いた畳の上に『シロ』がいたのです。衰弱して目が見えないようでした。どこでどうして生き延びたのやら今でも不思議でなりません。私たちが避難した後もシロは残って家を守ってくれていたのです。
被災後工場を再建させましたが、そこにはいつもシロがいました。家族の心を一つにして復興へまい進させたシンボル的存在になっていました。東日本で被災された町村長さん方は大変なご苦労でお疲れのことと思います。住民の方にとっては、町村長さんの陣頭指揮を執っていらっしゃる勇姿こそが頼りではないでしょうか。お体に気を付けていただき頑張って下さい。全国の皆さんと一緒に私達も応援いたします。シロは、その後に工場の再建を見取るようにして永久の眠りに就きました。この工場は平成12年の東海豪雨で三たび水没し、閉鎖しました。人生で3度も豪雨災害を受けると天災とは思えなくなります。このことが契機となり、住民が安心して暮らすことのできる災害の起こらない安全なまちづくりを訴え、平成14年に町長選に出馬し、現在「安全で安心して暮らせる安定した町の建設」を基本として3期目を務めています。そして、私の心の中にはいつも『シロ』が生き続けています。