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 日本縦断ヒッチハイクの旅

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年7月5日

沖縄県金武町長 儀武 剛

人生の転換期という言葉をよく耳にするが、私にとってそれはいつだったかと振り返ってみると、20歳になったとき自分に課した挑戦だったように思う。その頃私は南九州大学で園芸を学ぶ学生で、青春真っ盛りの時代だった。20歳になり、大人の仲間入りをした自分に今何ができるのか。何か人生最大の挑戦がしたいと、大学のある宮崎から日本縦断の旅を決意した。

学生でカネのない時分、移動の手段はもちろんヒッチハイク。着替えや寝具、行き先を書くためのスケッチブックなど、旅に必要な最小限の荷物をリュックに詰め、いざ旅に出た。宮崎からヒッチハイクで北上し、福岡へ。車を乗り継ぎ、広島、岡山、大阪をとおり中部地方へ入った。横浜では、車に乗せてもらっただけでなく、栄養でもつけろよと3千円を差し出してくれた方もいた。もちろん「お気持ちだけ頂きます。」とお礼を言って車を降りたが、その人も車から降りてきてシャツのポケットにお金を入れて去っていった。そこから太平洋側を北上して東北地方を目指し、青森からフェリーで北海道へ渡った。北海道でもたくさんの方々にお世話になった。日本海側を通る帰りのルート。金沢でヒッチハイクした際、車に乗せてもらった方に言われた言葉が頭に残った。

「あなたはなぜこの世に生かされているのか常に問い、あなたがこの世に生きた証しをつくれるような人生を送れ。」

この旅をしていなかったら、この言葉は胸に響かなかったかもしれない。しかし、この旅でたくさんの苦労もして、たくさんの方々にお世話になり感謝の気持ちでいっぱいだった自分には、とても大きな印象となったのだと思う。

40日間にも及んだこの旅を終え、それから20年が経ち、その間に地元の金武町役場に就職、結婚もし、3人の子どもにも恵まれた。この20年の間に自分の生活も変化したが、世の中もめまぐるしく変化した。この頃は仕事も充実し、財政係長として重要なポジションも任されていた。しかし、2度目の成人と言われる40歳を迎え、人生の岐路に立ったとき、あの日本縦断の旅の途中に言われた「なぜこの世に生かされているのか、生きた証しをつくれるような人生を送れ。」のあの言葉が頭をよぎった。人と人とのふれあいが希薄になり、痛ましい事件、事故が増える世の中にあって、PTA活動や地域活動、そして町職員として公職に従事する中で、この町をもっと住みやすい、明るい町にしたいと、町長就任への思いを抱くようになった。

まだまだ、若年で政治の経験があったわけではないが、周りの後押しもあって立候補を決意した。そして、応援して下さった方々のおかげで当選を果たし、当時では県内最年少の市町村長となった。

はじめのうちは、右も左も分からなかったが、職員一丸となってまちづくりに努め、様々な施策も実を結んできた。その評価もあって、今年4月には3期目を迎えることができた。

現在、本町では米軍基地ギンバル訓練場返還に伴う跡地利用計画という大きな事業を抱えている。この訓練場跡地には地域医療施設やリハビリ関係施設、観光体験農園などの施設を計画している。この事業によって米軍基地の整理縮小を図り、基地経済からの脱却、自立経済の確立を目指し、町民の雇用拡大と地域活性化の起爆剤となると確信している。

町民憲章にあるように、活気あふれる産業のまち、健康で思いやりのある福祉のまち、水とみどり豊かな平和なまちの創造を目指し、ヒッチハイクの旅で得たチャレンジ精神を胸に、身を粉にして邁進していきたい。