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 「斜陽」のルーツ

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年6月28日

滋賀県町村会長 愛荘町長 村西俊雄

朝、食堂ですうぷを一さじ、すっと吸ってお母さまが「あっ」とかすかな叫び声をおあげになった。・・・・

これは、太宰治の名作「斜陽」の書き出しである。1947(昭和22)年、太宰治が38歳のときに発表し、一躍ベストセラーとなって、その名声と栄光を不動のものとした作品である。

昨年は、太宰治の生誕100年を多くのマスメディアが取り上げた。その代表作の一つ「ヴィヨンの妻」も松たか子主演で映画化され、生きることに苦悩する弱き夫を愛で包み込む妻を好演した。ラストシーン、ヒロイン佐知がつぶやく原作通りのフレーズ「私たち、生きてさえいたらいいの」が印象的だった。

太宰治の作品は今なお、若い人たちの共感を呼び、多くの人に読まれている。教科書にも採択された「走れメロス」は、誰でも知っている短編だ。私も20歳代の頃、「人間失格」位は読んでおこうと思い、読み始めたのだが「人間失格」から読み始めたのが失敗で「ああ、これが頽廃文学か」当時、自殺志向の太宰治が巷間言われていたもう一方の評価に頷いてしまい最後まで読み切らなかった記憶がある。

「恋しい人の子を生み、育てることが私の道徳革命の完成なのでございます」と「斜陽」のヒロインかず子は、望みどおりに死んでいった愛人との間に、望みどおりに生まれてきた赤ちゃんとともに強く生きることを決意する。

このヒロイン「かず子」のモデルが、当町愛荘町(合併前の愛知川町)出身の太田静子であり愛人は言うまでもなく太宰治で、「赤ちゃん」が現在、活躍中の作家、太田治子さんである。太宰がこの子に自分の「治」を採って「治子」と名付けた。

その太田治子が昨年、朝日新聞から出版した「明るい方へ」の著書で、父と母の実像を詳細にまとめ上げた。

治子の母、太田静子は、中山道の宿場町、滋賀県愛知川で父が開業していた太田守医院の娘として生まれ、地元の高等女学校を卒業後上京し、文学を目指した人である。

彼女は、伊豆の山荘で太宰と近江や京都の思い出を語りつつ結ばれるのだが、太宰亡き後、郷里、近江に里帰りも適わず、いつも、愛知川のことを娘治子に語っていたという。

名作「斜陽」は、太宰が伊豆下曽我の太田静子に書かせた日記を下に書かれ、その多くが引用されているのである。太宰が稀有の天才でも男性が繊細な女性心理をあれだけ自然に表現することは困難だという評を読んだことがある。

昨年12月、残念ながら「斜陽」の舞台となったこの山荘は不審火により全焼してしまった。

太田静子が訪ねた太宰治、終焉の地、三鷹を昨年秋、「斜陽」への旅として私も訪ね歩いた。

太宰治と妻美知子が子達と住んだ百日紅の木が残っている本宅跡、「斜陽」を書いた小料理屋千種、「人間失格」や遺作「グッドバイ」を書いた太宰最後の愛人山崎富江の住まい跡、玉川上水に富江と入水の前夜、彼女がうなぎの肝を買ったうなぎ屋跡、富江と堅く帯で結び合い、履物を揃え、入水した玉川の現場、森鴎外の墓と向かい合わせに太宰治の墓がある禅林寺、そして駅前にある太宰治資料館など太宰も下駄履きで歩いたであろう距離感を実感しながら、遠く近江愛知川の点と線を結びつつ、これらのゆかりの地を歩いた。

ことし5月、静子の生誕地が当町というご縁で、太田治子さんを文化行事の講師に招聘し、講演会を開催した。

彼女は、NHKのテレビやラジオでさわやかなトークを展開されていることもあり、各地から多くのファンが集まり、母静子さんのゆかりの人達も相集い、「斜陽」の主人公誕生の秘話に花が咲いた。