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 熱く燃えた夏

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年4月5日

宮城県南三陸町長 佐藤 仁

 

 


♪雲はわき 光あふれて 天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ・・♪
今から40年前の「第51回夏の甲子園大会」、といっても熱烈な高校野球ファンでもなかなか思い出せないと思いますが、あの三沢高校の太田幸司投手が活躍した大会と言えば大概の高校野球ファンなら思い出すことと思います。
決勝戦、三沢高校と松山商業の延長18回引き分け再試合は全国の野球ファンのみならず全国民の心を躍らせました。
残念ながら、その影に隠れてしまいましたが、私もこの大会に東北代表(当時の代表は1県1校ではなく宮城県と福島県で1校)仙台商業高校の遊撃手として出場しました。
昔から宮城県の高校球界は私学2強といわれ、東北高校と仙台育英が交互に甲子園に出場しておりましたが、へそ曲がりの私はその2強を倒して甲子園に行くのが価値があると信じて疑わず、公立の雄と言われていた仙台商業の野球部の門をくぐりました。
2年生の秋、宮城県大会で優勝し東北大会に出場したものの決勝であの三沢高校の太田投手と対戦して惜敗し、春の選抜大会の道を断たれました。
3年生、いよいよ最後の夏。
県大会は雨、雨、雨で日程変更が相次いだのを未だに覚えていますが、順当に勝ち上がり福島代表との東北大会に進み磐城高校・田村高校を大接戦の末に破り、仙台商業として2度目の夏の甲子園出場を果たしました。
昭和44年8月9日、午前9時。銀傘にファンファーレが鳴り響いて、いよいよ開会式。
真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ中、満員のアルプススタンドを見渡しながら入場行進に臨みましたがなぜか緊張するという感覚はなく、むしろ冷静でいる自分が不思議でした。
初戦の相手は紀和代表の御所工業で、チームカラーが似た同士の戦いになりましたが、得意の足を使った試合運びで6-3で初戦を飾ることができました。2回戦は前評判で優勝候補の呼び声が高かった広島代表の広陵高校で、正直な所この試合で「夏も終わり」かと思いました。案の定、試合前の練習会場での広陵の打撃練習を見てそのパワーに圧倒されてしまいました。ピッチャーは超高校級と評判の佐伯投手(後に広島カープに入団)。私の高校時代で対戦した多くのピッチャーの中で、彼の投げる球はダントツに速かった。打席に立った時、当たったら死ぬと思ったのは後にも先にもこの時だけでした。チームの皆もそう感じていましたが、しかし高校野球は分からないもので4-1で勝ってしまいました。相手の1点は私がフライを落球したためで(記録はヒット)、完封を逃したピッチャーにはしばらく頭が上がりませんでした。
夢にも思わなかったベスト8!
準々決勝の相手は東中国代表の玉島商業。実はここで勝つと準決勝の相手は昨秋苦杯をなめた三沢高校に決まっていました。目先の試合に集中しないで変な欲を持つといい結果はついてこないもので、この試合2-7で逆転負けしてしまいました。
熱く燃えた夏は終わりました。
私のチームは高校生としてごくごく平均的なチームでしたが、一人だけスーパースターが存在しました。後にドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した八重樫幸雄君です。彼のバッティングは凄かった。甲子園大会が終わって、ブラジル遠征のために全日本選抜チームが結成されましたが彼はその全日本で堂々4番に座りました。
高校野球ではさまざまなことを学ぶことができました。とりわけ痛感したのは目標を掲げてそれに向かってひたすら努力することの大切さであります。「結果も大事ですが、そこに向かうプロセスの方が何倍も何十倍も尊い」ことを身をもって感ずることができました。
今の私の夢は、南三陸町の地元高校である志津川高校が宮城代表として甲子園の土を踏むことと、今年で6年目を迎えた東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズに進んで日本一になり、クリネックススタジアム宮城のバックスクリーンの上にチャンピオンフラッグが掲げられることであります。
野球少年の心、いまだ健在!!