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 農を以て立町の基と為す

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年8月24日

新潟県津南町長 小林 三喜男


昭和の改革で6ヶ村が合併し、津南町が誕生しました。日本一の河岸段丘を自負し、日本一の豪雪地域でもあるが、清冽な水は「全国名水百選」に認定され、更には水力発電所が6ヶ所もあります。中でも東京電力信濃川発電所は37万世帯分のエネルギー源でもあります。
「農を以て立町の基と為す」を町是とし、酪農振興法による「乳流るる町」を標榜しながら、当時は除雪体制が整わない中、一本橇で牛乳を鉄道駅まで運搬するなど過酷な労働を強いながらの先人のご苦労がありました。
時あたかも燃料革命がもたらされ、薪から石炭、石油へと変わり、広大な薪炭林が不用となり、その活用を図るプロジェクト事業を展開することになりました。
即ち「苗場山麓農地開発事業」が農水省直轄の国営事業として採択され、調査・計画が進められました。
当時、私は33歳の町会議員でありましたが、時の町長より「本事業の推進役を担え」とのご託宣により、町議の任期を残し、役場職員となり、爾来30年間にわたり本事業遂行に関わってきました。
調査計画では開田計画でありましたが、その後、開田は罷りならぬこととなり、開畑計画に変更され、昭和48年に北陸農政局苗場山麓開拓建設事業所が開設され、着工の運びとなりました。しかしながら、当地は養蚕の桑畑こそあれ、豪雪ゆえに果樹もなく、雑穀程度の畑作で野菜栽培の経験はゼロに等しい状況であり、畑作先進県の長野県や群馬県などにバスで視察研修を行いながら農家の理解を求めました。しかし、薪炭林とはいえ、生育中の杉林も広がり、容易に同意を得られず、土曜、日曜もなく毎晩農家説明に出向き、時には茶碗酒を酌み交わし、議論の末に茶碗酒をぶっかけ、ぶっかけられたりの珍事もありました。
事業の進展の中、農水省職員も40人から60人体制となり(延人数500人)活気を呈してきましたが、当時は事業予算の獲得が厳しく、12月の予算復活折衝で霞ヶ関や永田町に働きかけをし、田中角栄、福田赳夫代議士の私邸に朝駆けしたことが懐かしく思い出されます。
紆余曲折の大事業でありましたが、開発整備された畑は981ヘクタール、水田の整備が883ヘクタールで120万トンのダム2ヶ所、40万トンのダム1ヶ所で潅水畑となり、スプリンクラーが畑作の安定をもたらし、雪消えを待ってのアスパラガスに始まり、スイートコーン、加工トマト、葉たばこやカサブランカに代表される切花栽培など多様な高原野菜と魚沼コシヒカリのブランド米が産業の主役となっております。
平成15年3月に事業が完了し、30年間にわたる総事業費は577億円と巨額なものとなりましたが、広大な大地の担い手として、県外からの新規就農者も20名ほどが汗を流しております。都市への食料供給基地として、また、食料給率向上にいささかなりとも寄与しながら、国土や自然環境の保全、水源涵養など国民生活を基礎から支える屋台骨であることを自負しております。

財政基盤は弱くても、重要な役割を担っていることに誇りを持ちながら、農業基盤整備と地域づくりに取り組んできました。地域にもそれぞれ個性があります。個性があるから魅力があり、面白く、また、考え方も違います。
地域の多様性を認めず、町村の意欲と個性を削ぎ、自立と尊厳の精神を否定するがごとき市町村の再編は、やがて国土の荒廃や都市の衰退につながり、将来に大きな禍根を残すのではないかと危惧しています。
本町は、平成の市町村合併に対する方向付けを新たな出発の機会と位置づけ、税財政の将来予測、機構改革等を行ってきました。小なりといえども高い志を持ち、そこに自治の灯をともし、小さくてもきらりと輝く自治体にならんことを誓うものであります。