ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 >  地域と空港との「真の共生」を目指して

 地域と空港との「真の共生」を目指して

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年6月15日

千葉県芝山町長 相川勝重 
 
昭和41年7月、新東京国際空港建設の閣議は、私にとって大きな影響があり、その後の人生にとっても忘れられない出来事でした。
昭和30年代から新空港は国にとって必要だという議論があったことは、承知しておりました。東京湾・浦安沖・木更津・九十九里・霞ヶ浦 ・富里と、候補地が次々と挙げられ、一時は富里に不時着するかに見えた空港は、突如として成田市三里塚になり閣議決定されたことは、ご存知の通りです。
当時、私は高校2年生でしたの で、何が地域にとって、国にとって、良いのか判断することができない中での出来事でありました。全校集会で成田空港建設を巡っては、賛成派・反対派に分かれて、それぞれ討論会をしたことを記憶しておりま す。
その頃私はFFj(フューチャー・ファーマー・ジャパン)を目指して取り組んでおりました。東京という大消費地、さらに身近に成田空港という消費地ができれば「日本農業そして北総台地の農業が発展し、生活が安定する」という思いがありましたので、賛成の立場から意見発表したことを記憶いたしております。
卒業後「県立農村中堅青年養成所」に進んだ私は、寮生活を送っていました。そして帰省の度に空港建設を巡って、三里塚・芝山の地で、展開していた争いを目の当たりにしたのです。
20歳の私は、三権分立を学び、国や行政は法律を守り、弱いものの味方になるものと考えていたのです。その思いと現実とのギャップには大きな乖離があったのです。
1970年代は、70年安保闘争・学園紛争・地域闘争・公害問題等々、さまざまな課題や問題が数多く発生した時代でありました。私はこの70年代に、空港闘争関係で4度の逮捕があり、その後1972年から1986年まで14年に及ぶ裁判を経験いたしております。

今思うと、 60年代・70年代はまだまだ民主主義が未熟であり、「国が決めれば人々はどうにでもなるんだ」という思いがあったのでしょう。「ボタンの掛け違い」という言葉がその後をよく表しています。
私は昨年の11月にドイツ・ミュンヘン空港を視察させていただく機会をいただきました。そこでは「成田空港建設を反面教師として、ミュンヘン空港は建設された」というお話を伺いました。ミュンヘン空港は成田空港と同時期に建設計画が進められたのです。
空港建設の大きな違いは、話し合いの場と内容そして回数でした。成田空港は2本の滑走路建設までに公聴会を3度しか開催しませんでした。ミュンヘン空港は20年間で250回に及ぶ公聴会を開催し、平成4年の開港まで僅か5年で完成させたのです。今ではヨーロッパのハブ空港として大きな活躍をするまで成長しています。
今日の成田空港は、国をはじめ関係各位の参加の下に、シンポジウムや円卓会議を経て、地域と空港の「共存・共生」から「真の共栄」を目指して、国・県・NAA(成田国際 空港株式会社)・地域をあげて、空港を地域発展の核に据える取り組みができるようになったのだと私は考えます。
過去の歴史にとらわれることなく、その歴史を忘れることなく、あるべき道筋を多くの方々に示し「合意形成」という民主主義の原点を目指して取り組むことが、今日の私どもに課せられた大きな任務です。
私の反対運動の原点は「地域を守る」ことにありました。反対すること自体が目的ではなく、どのような地域にしていくことが、地域にとって大事なことなのか、その為には現実と理想を冷静に分析し、理念の奴隷になるのではなく、なおかつ理念を失わずに、現実を少しでも良くしていく姿勢が必要だと認識いたしま す。
現実を改善するためには異なる立場、異なる意見と折り合いをつけていく、そんな努力と道筋が必要です。そして私の使命は町の将来に目をやり、幸せに暮らしていける町づくりをすることです。空港のマイナスの影響を可能な限り改善し、空港の持っている活力を、地域に生かしていくことが最善の道だと考えます。
以上、高校2年生の時から今日までの歳月を経て、今思うことを自らの経験に即して述べさせていただきました。