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 町の発展のために~住んで良かった私の町~

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年3月16日

町の発展のために ~住んでよかった私の町~

福島県浅川町長  須藤 一夫


島県浅川町は、県中央を南北に連なる阿武隈山系の南部に属し、なだらかな低い山地と平原からなる風光明媚な町である。人口は男3,602人、女は3,640人の合計7,242人である。面積は東西に8㎞、南北に12㎞、総面積37.43平方㎞である。

地形的には町の中心地帯まで東西に流れる社川 (阿武隈川の支流)が、北へ流れを変える。その川の両岸に広大な田園が広がり、その風景は豊かである。また、気候は春夏秋冬の区別ははっきりしているが、降雪は少なく温暖な地域である。洪水・大きな地震等の災害もない。

私は浅川町の町長として、夢と希望のある町の姿を次のように考えている。これは至難なことではあるが、実現のために心を砕くつもりであり、町民の思いに適う努力をするのが使命だと認識している。

笑顔・協働の心で町民一丸のまちづくりから「住んでよかった 私の町 浅川」の実現を目指す。それを実現させるための柱を次のように立てた。

① 未来の基盤づくり
② 産業づくり
③ 人づくり(教育充実)
④ 暮らしづくり
⑤ 文化づくり

以上の点を実現させるために町民のよい意見を採り上げながら、行政に具体的に反映していく。そのためには、町職員の目標への真剣な取り組みが町民に理解され、町民参加の行政にしていかなければならない。私は町長として、町民の先頭に立って、気概のある町職員の育成を通して、町民の期待に応えていきたいと考えている。また、町民各位も、人間愛・正義・公正・恩愛の精神を町行政に反映させていただきたいと願っている。「明けない夜はない」の忍耐力を持ちたい。

政治姿勢についてはその一部を前述したが、重複しない範囲で私の考えを述べる。中国の言葉に「綸言如汗」という四字熟語がある。これは地位のある人の発言は直せぬ、ということだが、私は常に発言する時は、この言葉を念頭に置いている。

私は町政執行に当たるものとして、誠実・実行・笑顔・温かい心を座右の銘としている。

具体的には、職員は、町民と接する時は誠実であること、笑顔をもって対応をすることを心がけること、また各種証明書の申請にこられた町民に対する時などは、親切丁寧に説明すること、申請書などの書き方に戸惑う老人等に対しては、申請書の項目ごとに説明して理解してもらうこと。こうした職員の温かい心が町民の心に伝われば笑顔のある町政が実現すると考えている。

明るい笑顔と明るい心の絆が、もっとも重要なことだと考えている。職員は公僕であり、町民もまた謙虚な精神を忘れないことが浅川町の発展の基盤となることを自覚してほしい。

浅川町は、昭和45年頃までは、農業人口が多く農業の町であったが、昭和50年代になると、工業やその他の職業人口が増加。現代は純粋の農業人口は極端に減っている。そのため、現代の町民の認識も多様化し、生活の様相が複雑化してきている。行政が一つの事業を企画しても、意見が分裂して事業の進行を停滞させ、場合によっては取り止めるものもある。

それでは全部が駄目なのかと言えば、そうではない。農家の青年が立ち上がり、ブランド米(こしひかり)として県外に売り出して成功している例もある。産物としては、荏胡麻(えごま)を生産して活用している人や、純粋な菜種油を生産して、健康食品として販売している人もいる。

浅川の人は、近代化のバスに乗り遅れない努力を惜しまない認識を高めるべきである。

町の誇り「浅川の花火」
 
浅川の花火の起源については諸説がある。300年前から、という人もいるが、地方史家の研究では、諸資料の解読から200年前が妥当ではないかと言われるので、それに従う。

花火は毎年旧盆の8月16日、町の青年会の人達の献身的な努力によって行われる。これは江戸時代中期の後半に起きた浅川騒動と言われた、農民一揆の犠牲者の魂魄を慰めるために始められたと伝えられている。花火も、昭和12年頃までは、青年達の手づくりの花火を上げていたのだが、法改正によって火薬使用が禁止されてからは、花火師から買うようになった。

花火の内容も年々豪華になってきて、観衆もまた町内外から万人を超すようになった。特に城山に敷設された地雷火が爆発する時、山全体が火の海となる光景は浅川の花火の誇りである。町商工会の出店や、露天商の出店もあり、浅川町最大の賑わいとなる日である。私はこの伝統の文化の華「浅川の花火」の継承に努力していきたいと考えている。

「吉田富三賞」

癌研究の先駆者として世界的に有名な吉田富三博士(1903~1973)は浅川町の出身で、町民は町の誇りとして尊敬している。

博士の偉業は、昭和七年、ラットの肝臓に世界で初めて人工的に肝臓癌を生成し癌研究の扉を開き、昭和18年には、癌細胞の究極の姿と言われる液状の癌細胞(吉田肉腫)を発見して、今日の癌研究の基盤を創設したことである。

浅川町では、博士の偉業を後世に残し、町民の健康意識を増進するとともに、青少年の教育に資するために「吉田富三記念館」を建設し、平成5年10月1日に開館した。

記念館の事業として、日本癌学会と浅川町が共同して「吉田富三賞」を創設し、癌研究に功績を残した病理学者に授賞している。授賞式は毎年日本癌学会の総会の席で行い、受賞者には、日本癌学会会長と浅川町町長によって正賞と副賞が贈られている。

「吉田富三賞」によって、「吉田富三記念館」の評価が高められている。平成6年8月19日には、常陸宮殿ひたちのみや下御来館の栄に浴している。

その他の事業として、福島県内の小学生を対象にして「吉田富三子ども科学賞」を設け、科学教育の振興を図っている。それから県内の小・中・高・一般の人を対象として「詩を書こうコンクール」を実施して文化の向上に努めている。また、町内の小学生を対象にして「科学教室」を実施して科学への関心を高めている。

以上が、浅川町の主な文化関係の事業の概要だが、私は町長として事業推進の先頭に立って努力していきたいと考えている。