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 郷土への想いから生まれた政策-「農」のあるまちづくり

印刷用ページを表示する 掲載日:2009年2月2日

埼玉県宮代町長  榊原 一雄


 
【春】用水路に満ちた水が大地に広がり、青々とした早苗が次第に姿を現すと、活力に満ちた宮代の春の始まりです。芽吹いた木々の所々に色を足すように、町内のあちこちで桜や菜の花も開花します。
【夏】照りつける太陽の下、河川沿いの遊歩道に大輪の向日葵が優雅に咲き誇ります。麦わら帽子をかぶった子供たちは、セミやカブトムシを求め、捕虫網を片手に野原を駆け巡ります。
【秋】稲穂のじゅうたんの上をトンボが行き交い、そこを夕日が茜色に染め上げていきます。やがて刈り入れが終わった水田には白サギが舞い降り、屋敷林が紅葉し、虫の音が耳に心地よく響きます。
【冬】澄み切った夜空に美しく輝いていた星が夜明けとともに姿を消すと、北関東の山々が早朝の風景にくっきりと浮かび上がります。落葉樹の葉はすっかり落ち、草木は眠りに入りますが、麦畑では新芽が出そろい、一面みずみずしい緑に覆われます。
普段から見慣れたこのような平凡な農村風景ですが、春・夏・秋・冬、その時々に応じて表情を変える姿、これこそが「何ものにも変えがたい宮代の良さ」なのだ、ということを実感させられます。同時に、この地で生まれ育ち、こうした風景を半世紀以上もの間、日常的なものとしてきたことの幸せを改めて感じたりもします。
このように宮代町は、昔ながらの趣ある農村集落と首都圏40キロという利便性の高い都市的要素が共存する町ですが、町長に就任する前から、先人たちから大切に受け継がれてきたこの自然環境と四季の営みに「まちづくりの原点」を感じ取っていました。
振り返れば、昭和40年以降、東京のベッドタウンとして住宅地が造成され、1万人だった人口は3倍以上に膨れ上がりました。しかし、今は人口減少時代を迎えています。これ自体を捉えても、これからのまちづくりは、右肩上がりの「開発・拡大」といった前世紀的な発想を大きく転換する必要があると感じています。
開発か保全かという二者択一ではなく、いかにこの恵まれた自然環境と調和させながらまちづくりを進めていくか、という視点が大事になってくると思います。
豊かな自然に恵まれた品格あるたたずまいの住宅都市‥‥そんなまちを目指し、まちづくりの創造理念を「農のあるまちづくり」と定めたのが、いみじくも町の人口が減少に転じた平成10年のことでした。
なぜ「農」なのかと問われることがあります。南ドイツの農村を訪れたとき、そこでは、「自然」というとそのほとんどが身近な自然、つまり農村の自然であり、畑や果樹園も大切な自然の一部だと認識されていました。ドイツのまちづくりには足元にも及びませんが、今でも農村的である宮代にとって「農」は、自然はもちろん、歴史や文化そのものなのです。


地域の歴史や風土を踏まえたその地域にしかあてはまらない政策があるとすれば、宮代の場合、それは疑いもなく「農」を生かしたまちづくりだと思っています。
以来、この理念に基づき、宮代産農産物の直売所や市民農園などを備えた「新しい村」の施設整備をはじめ、雑木林の保全、自然工法による河川改修や遊歩道の整備、特産品開発や食を通した教育など、まちづくりのさまざまな分野において、ソフトとハードの両面から「農」を生かした政策を展開しています。
ちょうど10年を経た今、その成果が徐々に現れ、人と地域に活力が生まれ、同時に町の魅力と自治力も高まってきたと感じています。宮代では現在、市町村合併の動きがありますが、合併をしてもこの地域は未来に渡り継承されていくものと思います。これからも「農のあるまちづくり」の理念に基づいた地域づくりを町民の皆様と共に進め、「美しい風景のまち宮代」を創り上げていきたいと思います。
町民の方と話をすると「もう宮代町は第一のふるさとですよ」と言われることがあります。そうした言葉の裏には町への愛着や誇りを読み取ることができます。うれしくもあり、励まされる思いもします。