ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 >  「良き道たどれば、良き里あり」といにしえに云う

 「良き道たどれば、良き里あり」といにしえに云う

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年12月22日

兵庫県猪名川町長  真田 保男


猪名川町は、昭和30年4月に2か村が合併して、当時としてはめずらしい一郡一町のまちが誕生した。
この町名の由来は、町の中央を流れる淀川水系の一級河川「猪名川」を町名としたものである。
阪神都市圏に位置し、町域面積90平方km余りのうち、約80%が山林となっており、殆どが県立自然公園の指定を受けている。自然豊かな歴史と文化の薫り高い町で、四季折々に自然が創り出す風景は、人々の心を癒し、和ませてくれる。
町の基幹産業は、米作や近郊野菜を中心とした農業であるが、最近後継者不足に悩んでいる。
一方、食に対する関心が高まり、都市近郊の地の利を活かした野菜づくりが、小規模ではあるが団塊の世代を中心に広がりつつある。
このことは生きがいづくりや健康づくりにつながっていくものと期待している。
町の人口は、合併当時、7,600人程度であったが、昭和40年代後半から、日本経済の発展とともに住宅地開発の波が押し寄せてきた。
そこで、昭和45年に土地の規律ある利用を図るため、町の約半分の南部丘陵地を阪神間都市計画区域に編入し、同時にその全てを市街化調整区域(現在は町全域が阪神間都市計画区域である)とした。
そこから、新しいまちづくりに取り組んだのである。それは、住宅地開発事業者との大規模開発に向けた協議であった。
人口7,600人の町が20,000人規模の開発計画を受け入れるとなると、開発事業者のかなりの負担と協力がなければ、先人達が守り育ててきた町の歴史や文化が壊れてしまい、単なる大都市のベッドタウンとなる。
この様な思いを、相方が理解し、確認を行った上で、ニュータウンの開発を受け入れてのまちづくりを進めてきた。
昭和50年頃からは、新しい町への入居が進み、合わせて、公共施設の整備にも力を注ぐこととなった。
さらに、古くから住んでいる人と新しく移り住んだ人との交流を重点課題として、その場づくりにも力を入れてきた。
それには、行政の持つ情報の提供も大切であることから、住民に解りやすく懇談会を開催し、信頼関係を築くことにも努めた。
やがて、住民相互の交流の輪も広がり、今では人口32,000人を超える町として、成長発展を続けている。
折しも、地方分権が進み、いよいよ自主・自立のまちづくりへと、平成15年から町内7小学校区に役場幹部職員を地域担当職員として配置し、地域の抱える問題・課題について意見交換を行いながら、行政情報の提供にも努めてきた。
このことが、住民の行政に対する理解を深め、信頼へと繋がってきたと考え、昨年からは、これを更に発展させ、各校区に自主自立のまちづくりを進めるため、地域まちづくり協議会の設立に取り組んでいる。
国では、分権改革が進められ、財政面においても、特に規模の小さい町村行政に大変厳しい時を迎え、本町も当然のように合併の議論を進めたが、それには至らず、住民とともに痛みを分かち合いながら、可能な限り行政サービスは現状を維持しようと努めているところであるが、いずれも大変厳しい環境におかれている。
国は、均衡ある国土の発展のため、農山村が日本の風景環境を守るためにたゆまぬ努力を続けていることに、目を向けて評価してほしい。日本の隅々までにあたたかい血を流してほしい。そうならなければやがて多くの農山村は、壊滅していくだろう。
良き道たどれば、良き里ありと云う。
地方末端に血が通い、ものが通い、文化が通う、そうなれば、農山村に住む人々に勇気と意欲をもたらすものだと思う。