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 都市に”自然・文化との共生”の場を創る

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年12月15日

都市に“自然・文化との共生”の場を創る

愛知県蟹江町長  横江 淳一



~先人から受け継いだ資源・文化・知恵などの資産を後世に引き継ぐために~

昭和17年、蟹江町を訪れた文豪吉川英治は、情緒あふれる水郷景観に出会い「東海の潮来」と絶賛し、この地をいつくしんだといわれる。

当時は、一面に田と内川(クリーク)が縦横無尽に走り、クリークを舟が行きかい、農業が営まれていた。伊勢湾とつながる河川は、戦国時代から伊勢湾の海上交通路の要衝として栄え(現在の舟入地区)、百石船が入港し、両岸には倉庫が連なり、水運を中心とした経済活動が営まれていた。さらに河口部は漁師町としても繁栄していた。まさにどの産業も川との密接な関係で成り立っていた。

しかし昭和34年、この地方を襲った伊勢湾台風は、農業・漁業に甚大な被害をもたらし、この機を境に蟹江町は大きく変貌して、大都市名古屋のベッドタウンに姿を変えていった。そして、高度成長による都市化の波は、水郷景観や自然の営みを一変させた。わずか30年足らずの間に、川は汚れ、水辺の生き物は姿を消し、かつての面影が失われてしまった。

平成元年に策定した第2次蟹江町総合計画は、この事実を踏まえ、“まちづくりの戦略プロジェクト”として「水郷の里再生計画」を掲げ、再び蟹江の水郷景観と環境を甦らせるために町民ぐるみで展開することにした。

その後、国が展開していた地域再生推進のためのプログラムに応募し、平成16年12月8日に「水郷の里“蟹江”再生計画」が認定された。 

私が地域再生・都市再生を考える上で常々考えさせられることは、“再生とは、なんぞや”である。

かつて人の暮らしに息づいた産業によって形成された町並みは、その時代にあった道幅であったり、川幅であったりした。漁師町であった舟入地区は全盛期でも、生活道路は魚を天秤棒で担いですれ違える幅でよかったし、幹線道路は大八車がすれ違える幅でよかったのである。

暮らしの中に産業機能を失った地区では、人々は自動車社会に対応するため、特に若者は郊外に移り住み、お年寄りだけが残り、徐々に空き家が増え、生活の機能を失いつつある。当時を伝える町並みは水郷の里を造り上げてきた蟹江独自の風情そのものであるが、これもまた消えつつある。

日本らしさ、蟹江らしさの原風景は何処まで残せるのだろうか、残すべきなのだろうか。産業が暮らしに密着すればその町並みは受け継がれていくが、その産業を復活させるすべはない。であれば、住む人の時代にあわせた、新たな再生を図るしか策はないのだろうか。

“ほどほどの都会で、ほどほどの自然味のあるまち”というフレーズを考えてみたとき、キーワードは、共生であろう。曖昧なフレーズではあるが、何となく身近な感じがする。これは、長く住み次の世代へと受け継がれる定住型社会に求められるキーワードではないかと思っている。都市機能もあり、歴史も感じられ、自然が程よく感じられる環境はそうあるものではない。

まさに、「過去の大切な部分と住み続け暮らしていくための“共生をどのようにしていくか”である」と思っている。

余談あるが、「蟹江って、どんなまちですか」と問われ、広く通用する言葉で返すことができず、たいへん悔しい思いをしたことを忘れることはできない。

「利便性のよいまちベッドタウン」だけに甘んじてはいられない。「蟹江はどういう町だ」と尋ねられた時、胸を張って答えられる魅力(売り)を住民とともに創り上げていきたいと思っている。

わが町の資産は人である。ひとつには観光にこられた皆さんに“町民のおもてなしが温かく感じられるまち”を土産として持ち帰っていただき、“また訪れたいと思っていただくようにしたい”と考えている。

住民が支えるまちづくりが私の目指す自治体経営である。