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 我が町の今昔

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年10月13日

我が町今昔

新潟県聖籠町長  渡邊 廣吉



新潟県北蒲原郡聖籠町は、日本有数の穀倉地帯である越後平野の中央よりやや北側に位置し、日本海に面している。町の東側には新潟・山形・福島にまたがる飯豊連峰を源とする加治川が日本海に注いでいる。町の大半が新潟砂丘と呼ばれる砂丘地帯の上にあり、砂丘の町と言っても過言ではない。その地質を活かしたサクランボ・ブドウ・ナシなどの果物が四季を通して豊富に産出され「果樹の里」として広く知られている。

一方で、国の特定重要港湾で日本海側の窓口として重要な役割を果たす新潟東港の後背地に広がる町でもあり、造成された工業団地への企業進出により、工業港の町としても注目されている。 

さて、現在はこのような実り豊かな町であるが、そもそもこの「聖籠」という名はどのようにしてついたのであろうか。

聖籠町大字諏訪山には小高い山(砂丘)の上に観音寺というお寺がある。聖籠山といい、近隣では古くから聖籠の観音様として広く知られ、越後三十三観音札所巡礼地でもある。この観音寺の「聖籠山観世音略縁起」に次のような伝承がある。

≪昔、百合若大臣という者が勅命で越後国に来てこの地の洞より名鷹を得、緑丸と名付け寵愛した。緑丸は忠義を尽くし、功をたてその身を終えた。この鷹の菩提を弔うため十一面観音を本尊とし、二王門を建てた。後にどこの国からともなく聖者がやって来て堂舎を建て、この聖者が籠ったが故に聖籠山と名付けた。≫と記されている。ここから「聖籠」の地名が付いたという地名起源の伝承が残っているのである。

なお、鷹の緑丸は現在聖籠町のイメージキャラクターになっている。

では、百合若大臣とは何者であったのであろうか。実は「百合若大臣」とは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて流行した中世芸能である幸若舞の語り台本を集めた『舞の本』に掲載されている曲の一つである。幸若舞は能と並んで武家たちに愛好された芸能であり、織田信長が桶狭間出陣前の酒宴に幸若舞の「敦盛」の一節である「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」と自ら歌った話は有名である。

この「百合若」の曲の梗概は次の通りである。

≪昔、百合若大臣という右大臣がいた。蒙古軍が筑紫の博多に大軍で攻め寄せてきたので天皇の命で百合若が迎え撃ち、長い戦の末勝利を収めた。その後、百合若は帰還の途中に博多湾口の玄界島で家臣の別府兄弟の裏切りにあい、玄界島に置き去りにされる。

別府兄弟は百合若の帰りを待つ御台所には戦死と偽る。御台所は百合若の宇佐八幡宮への宿願を信じ、緑丸という百合若の愛鷹を放したところ、玄海島の百合若の所へ飛んだ。緑丸が木の葉を渡すと、百合若は血書し緑丸に託す。百合若の生存を知った御台所は、紙や筆・硯・墨がないのであろうと緑丸に結いつけて運ばせた。しかし、緑丸は力尽き海に落ちてしまう。玄海島の百合若は、波打ち際で落命している緑丸と運んだ数々のものを見つけ、嘆き悲しむ。

その後、宇佐八幡の霊験か、筑紫に帰り着き、逆臣の別府兄弟に復讐を遂げる。御台所とも再会し、日本国の将軍となり出世したのであった。≫

実はこの物語、九州を中心として日本各地で伝承されているのである。その地域ごとに特徴があり様々な形で伝承されている。この広がりには大分県宇佐市の宇佐八幡宮を総本社とする八幡信仰が背景にあるとされ、これに関わる唱導者や、または修験者などつながりのある人々により各地にもたらされたものであろう。

このように見ると聖籠山にまつわる地名起源の伝承は脚色された部分もあり、これをもって歴史的事実と認めることはできない。しかし、この縁起の作られた時代性やその当時の人々の考え方や価値観がどのようであったかを知る上では重要な歴史的意味を持つ。すなわち、聖籠山は古来より聖なる場所であり、百合若伝説や八幡信仰といった伝承や信仰が結び付きこのような起源伝承が形成されたのである。

近世以前、この地域は河川や潟湖が多く、内水面交通が発達していた。各地の人々が舟に乗りこの聖籠の地を活発に往来していたのであろう。