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 幼少年期の思い出

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年8月25日

群馬県神流町長  宮前 鍬十郎


私は昭和15年旧万場町(現神流町)塩沢の農家に生まれました。神流町中心地より山間部に2キロ入ったところに塩沢という集落がありますが、私の生まれた場所は、そこから更に約4キロ入った標高800メートルに位置する一軒家です。
6人姉弟の上5人は姉で、私は末っ子です。1番上の姉とは親子ほど年齢が違います。
生まれて物心が付いた頃は、周りは家族のみ(家族は祖父母、両親、姉弟の10名)で、私の面倒を見てくれた下の姉2人の他は、みな農作業を手伝っていました。
当時は自給自足の時代でしたので、畑として利用できる土地は猫の額ほどであっても、可能な限り耕し、栽培できる作物は何でも作り、現金収入といえば年に1度の初秋蚕の繭と僅かな自然薯の蒟蒻の売り上げでした。
野山をかけめぐり自然が遊び場であり、そこで育った私も小学校入学を迎え、学校までの6キロの道程の半分ほどは、人1人がやっと歩ける程度の狭い山道で、川にかかる橋は丸太橋でした。そんな道を上級生の姉2人 に見守られながらの通学で、当時の空腹と疲れは今でも忘れられません。
私たち家族は、なぜこんな山の中で暮らさなければならないか、と父に恨みを持ったこともありました。後に聞いた話ですが、私が生まれる5年くらい前に塩沢集落から山上がりをしたそうです。塩沢の集落に居た頃は、山林や畑が四方に点在して農林業の経営効率が悪いため、経営規模拡大を図るため、多少山に入ってでも一纏めにすれば、農林業でも畜産でも効率のよい経営ができるということで、父としては大志を抱いての開拓地での生活だったそうです。その後、父の言葉の中で、「自分の考えは良かったが、子供達に苦労をかけたのが一番辛かった。」と話してくれました。
そんな所ですので、勿論電気もありません。灯りといえば、いくつかのランプです。(年数はかかりましたが、後に自家発電から東京電力に変わっていきました。)
私の小学校時代は、終戦間もない時期でしたので、教科書と言えばわら半紙何枚かに印刷された簡単な物で、表紙は家で堅い紙を見つけて補強したのものでした。ノートもありましたが、石盤に蝋石で書いたり消したりの授業です。ですから宿題もなく、ランプ生活もさほど苦にすることもなく過ごせました。小学校六年生の時、知人からもらったトランジスターラジオの有り難さが今でも思い出されます。
戦後何年か後に近くの国有林に、5世帯の開拓者が入植してきました。その中に子供づれの家族もおりましたので、通学する仲間もできましたが、都会からの急激な環境の変化で、大変な思いだったでしょうが、我慢できたのもそんな時代なればこそだったことでしょう。
中学生になってからは学校以外では、ほとんど家の農作業の手伝いで、通学での行きは炭一俵を背負って小遣い稼ぎをし、帰りには家から頼まれた買い物を背負い、夜は寝る前に母の編む炭俵の縄を綯い、日曜日になると家畜(山羊、牛、羊)の餌となる草刈り、今の時代では想像もつかないことですが、当時はそれが当たり前で山間部に住む私達の年代の人たちは皆経験してきたことでしょう。春は山菜採り、夏は魚捕り(イワナ・ヤマメ)、秋は栗拾い、くるみ拾い、茸採り、冬は枯れ木拾いなど、それなりの楽しみもありましたが、すべて生業の為でした。
私が中学を卒業する頃は、炭の運搬等にも馬が活躍するようになり、現在では大型自動車も通行できる道路に改良されました。
もちろん私は姉弟で、男1人ですので、家を継ぐつもりで農業高校へ進み、林業、農業、畜産、椎茸栽培、民宿業にも取り組んでまいりました。高齢化過疎化が急速に進む中、町の活性化を図るために、平成9年9月に58歳で町長に立候補し、現在に至っております。
財政的に厳しい現社会情勢下で首長の方々も大変な思いで健全な行財政運営に奮闘されていると思います。
当町におきましても、三位一体改革など国の構造改革により、厳しい行財政運営が強いられている中、浅学非才な私ではありますが、幼少年時代に培った経験を活かして、「自治の灯をともし続けるために」鋭意努力しているところです。
残された2年8ヶ月の任期を精一杯頑張っていきたいと思います。