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先人から教えられたもの

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年8月4日更新

福島県川内村長 顔写真 福島県川内村長  遠藤 雄幸


阿武隈高地の中腹にある我が「かわうちむら」に、詩人草野心平が訪れたのは昭和28年の夏の頃だった。ロイド眼鏡に麦わら帽子、セルの着流しに桐の下駄を履き、出迎えに行った長福寺の矢内俊晃和尚を驚かせた。実はこれより4年前、心平は「天然記念物モリアオガエルの生息地を教えてほしい。」と、ある新聞に投書したのが矢内和尚の目に止まり、早速に生息地である平伏沼(へぶすぬま)への招待の手紙を書いた。心平からは是非見たいという返事を貰ったが、この年には心平の希望は果たせなかった。
矢内和尚は、翌年も心平に招待状を送った。この繰り返しが五年続き、ついに村を訪れた心平は、大滝根山に源をもつ木戸川の清流と、そこに泳ぐ「岩魚」や「かじか」にみとれ、心温まる村民と酒を酌み交わし、幾夜を過ごしながら、標高800メートルの山頂にある平伏沼で、モリアオガエルの神秘的な産卵を目のあたりにした。
その後この沼のほとりに心平の
「うまわるや 森の蛙は 阿武隈の 平伏の沼べ 水楢のかげ」
の歌碑が建てられた。
よく「出会い」という言葉が使われる。それはあたかも偶然的なものとして捉えられがちだが、自ら求める気持ちがないと出会いには恵まれないし生かすこともできない。詩人草野心平との出会いは1通の手紙から始まった。毎年卵を産みつける6月になると、必ず誘いの手紙を送った和尚の思いはいかほどだったのか。今となっては想像の域を越えないが、その思いが心平を動かし出会いが生まれた。このことが将来、川内村の財産、宝物になることを誰が予想できただろうか。
2~3年後には山本太郎、辻一、会田綱雄等が来村し、平伏沼や「満天星(どうだんつつじ)」の群生地である高塚山にも登った。以来、心平や自身の繋がりのある文化人や芸術家が本村を訪れることが多くなり、村民との親交も深まっていった。心平の蔵書3,000冊を村に寄贈されたのを機に、文庫建設の話がもちあがった。
そして、村民一木一草を持ち寄り、村あげての労働奉仕によって建てられたのが、天山文庫である。天山文庫の名前の由来は、東洋と西洋を結ぶシルクロードにそびえる天山山脈になぞらえ、みちのくと中央との交流、人と人との出会いを大切にしたいという熱意を込めて、心平自身が命名した。
先人から学ぶことは多い。その1つが出会いの不思議と大切さではないだろうか。我々は数多くある出会いの中で生かされている。出会いによって人生を開花させていくといっても過言ではない。大事なことは、その与えられた出会いをどう生かしていくかである。短絡的に何か役に立つというのでは、あまりにも浅く、すぐ切れてしまいそうな縁でも困る。
天山文庫は建築家山本勝巳により設計され、川端康成が書いた「天山」が玄関に飾られた。落成を機に、「天山文庫設立協力委員会」が中央にできた。発起人には、私どもが作品を通してしか想像することができないようなアーティストが名を連ねた。井上靖、川端康成、武者小路実篤、中野重治、谷川徹三など、全てを列挙するわけにはいかないが、当然彼らの多くは本村を訪れ自然を満喫し、村民と温かな出会いを楽しんでいる。さらに、棟方志功や檀一雄、谷川俊太郎、石川達三等が天山文庫を訪ねている。
その後昭和35年名誉村民に推挙された心平、85年の生涯を全うした今、そしてこれからも、その偉業は村民の心から消えることはない。文庫落成を記念して毎年行われる天山祭り。没後20年の今年43回目を迎える祭りには、村内外から多くの心平ファンが押しかける。
矢内和尚と詩人草野心平との出会いは衝撃的なものであったに違いない。おそらく無言のままに感動し、お互いの人なりを少しでも知り、吸収しようとしたのかもしれない。二人の出会いによって現世の我々がその恵みを受けている。これは奇跡に近い。半世紀以上過ぎた今、このご縁をどう膨らませ後世に引き継いでいくか、我々の使命だ。