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 歴史と文化に育まれたまち

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年7月21日

山梨県町村会長 市川三郷町長  久保 眞一


県庁所在地甲府市から南へ笛吹川に沿って車で約20分、甲府駅からJR身延線で約30分のところに市川三郷町はあります。
平成17年10月1日に三珠町、市川大門町、六郷町の三町が合併して誕生しました。人口18,350人、総面積75平方キロメートル、甲府盆地の最南端に位置し、赤石山脈を源流とする釜無川と秩父山系を源流とする笛吹川が市川三郷町で合流し富士川となります。富士川は、山形県の最上川、熊本県の球磨川とともに日本三大急流の一つであります。
市川三郷町には小高い丘、丘陵がいくつかあります。曽根丘陵は山梨県の古代文化の発祥の地といわれ、大塚古墳やエモン塚古墳などの前方後円墳が集中しています。平塩の岡には市川の和紙の発祥の歴史があります。天台百坊といわれた寺々が甍を連ねていた千年前、平安時代中期の遠い昔にさかのぼります。14世紀、京都の南禅寺の僧、義堂周信は平塩の寺へ帰る仲間の僧に、「甲陽(山梨県)の爾紙は玉のようで雲より美しい、あなたが国へ帰ってその紙に得意の詩を揮毫するかと思うと実に羨ましい。」そんな手紙を送っています。その頃の高野山文書にも市川の紙は美人の素肌のように美しいという喩えで「肌好(はだよし)」と褒めて書かれています。武田氏、徳川幕府の誇り高い御用紙肌吉紙として世襲の肌吉衆によって漉き継がれてきました。
時代を経てその名声が伝える気概は今も手漉き唄となっております。江戸中期の明和2年に幕府直轄の甲斐の国市川代官所として陣屋が置かれ、25代にわたる代官が管内247カ村、75,000石を治めていた歴史があり、現在でも御陣屋の地名で残っています。
又、市川の花火の歴史は市川の和紙と深いつながりがあります。12世紀初め甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の子義清が甲斐国に下司として赴任した際、京都から従ってきた家臣の紙工、甚左衛門が紙を漉く技術に熟達しており、この地に技術を伝えたという。後になって里人は、市川和紙に功績のあった甚左衛門の恩徳を追慕し神明社に祀りました。それから毎年甚左衛門の命日である7月20日に祭典を行い、謝恩の意を表し花火を打ち上げたのが神明の花火の始まりとされています。
また一説には年々江戸行きの御用紙衆が江戸の花火に興味を持ち、ある時代に江戸から専門家を招いて伝授を受けたともいわれています。神明の花火は徳川の中期ころ常陸(茨城県)の水戸、三河(愛知県)の吉田と並んで日本三大花火の一つに数えられたほどでした。平成元年に神明の花火を復活させ、毎年8月7日を「はなびの日」とし、今年で第20回となりますが、二尺玉をはじめ約2万発の花火に約20万人が訪れる花火大会にまで発展しました。その他、江戸歌舞伎宗家、市川團十郎家の初代團十郎の曾祖父が武田信玄公よりあたえらえた知行地に建つ歌舞伎文化公園には、歌舞伎資料館と牡丹の花の庭園があります。
中国の名碑15基を中国陝西省西安碑林博物館の監修・制作によって創建当時のまま復元した、市川大門地区の大門碑林公園、ハンコの里、六郷は印章生産日本一を誇り、印章の歴史的資料「十鐘山房印挙」30挙191冊は世界で1部しか押印されなかった貴重な資料で、印章資料館に展示しています。
また、古くは「神秘麗湖」とも表された四尾連湖(しびれこ)などの名勝のほか、「のっぷい」とこいわれる肥沃な土地に育つとうもろこし「甘々娘(かんかんむすめ)」をはじめ、1m以上まっすぐに伸びた大塚ニンジン、大塚ごぼう、桃、ぶどうなど豊富な果実や農産物が栽培されています。さらに、眺望県下一の「みはらしの丘」、「みたまの湯」、「六郷の里つむぎの湯」など誇れるものが数多くあります。
「やすらぎづくり~日本一の暮らしやすさをめざして~」を基本方針として学ぶまち、暮らしやすいまち、楽しむまちをまちづくりの理念としております。平成29年度までに中部横断自動車道の全線が完成となる計画です。完成しますと、静岡まで約1時間、市川三郷町にインターも計画されています。JR身延線の駅が七駅、東京まで約1時間30分の距離、山紫水明、緑豊かな自然環境に恵まれた町です。