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 ふるさと大町町を想い

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年7月7日更新

佐賀県大町町長  武村 弘正


穏やかな気候風土と豊かな自然に恵まれた「ふるさと大町町」。
町の北壁「聖岳(ひじりだけ)」標高418mから望む有明海、その向こうには、雲仙岳・・・。聖岳連峰の懐に抱かれた佇まいは、緑豊かで風光明媚である。春は、山桜や藤の花が香り、夏の新緑、秋には、はぜや銀杏の木々が山麓を彩る。私は、町のシンボル聖岳の美しい山裾に生まれ育ち、こうした自然と触れ合いながら、多くの人たちとの心のふれあいと信頼による絆によって、今日まで職責を全うしてきた。
大町町に生まれ育ち、60有余年・・・。 
幼年時代、青年時代、そして今日まで思い出は尽きないが総じて「ふれあいと信頼による絆」の大切さ、ありがたさが深く身にしみている。ふれあいと信頼を大切にする者に、悪い人はいないと信じているからだ。これからも、私の信条を誇りに、町政の舵取り役を全うしていきたいと思っている。
さて、大町町の歩みを顧みると、文政2年(1819年)肥前多久藩が、この地で石炭採掘に着手し、寒村だった大町の様相は変わった。 
全国から人が集まり活気に満ちた。文政9年には、オランダ使節随員だったシーボルトも江戸への道中、坑内を見学したと記録されている。それから悠久の時を経て、今、町制施行から73年目の大町町がある。
戦後復興の柱として、脚光を浴びた石炭産業。大町町も産炭地として、重要な役割を担ってきた。昭和44年に鉱山(ヤマ)の火が消えるまで、町の面積、僅か11.46平方㎞の中で、最大24,000人もの人口を抱え、隣人(炭住長屋)同士が、窮屈な境域の中で、寄り添いながらコミュニティを形成していた。なんと人口密度は、2,100/平方㎞超だった。当時、大町小学校では、最大4,069名の児童数を誇り、昭和35年には、日本一のマンモス小学校として、新聞、週刊紙上に紹介されたほどである。
当時、私は町職員として、黒い「ダイヤ」ともてはやされた石炭が、エネルギー革命のあおりで、蝋燭の火が消えるが如く、その役割を終えるのを目の当たりにした。私は、時代の奔流に翻弄されながらも閉山に追いやられた石炭産業に代わる新たな産業の誘致に奔走したのをよく覚えている。 
今に至っては、炭坑時代の栄耀をいつまでも引きずるなと言う人もいるが、私には、隆盛期の大町町が脳裏から離れない。どうしても思い出す。活気に満ちたあの青年期。これが私の原点であり、原動力なのかもしれない。もう一度、この大町に活気を取り戻したい。どうしたらいいのか、これでいいのか、考えずにはいられない。どこかの知事ではないが、「どがんかせんば!」の心境が痛いほどわかる。
現在、大町町の人口は、最盛期の三分の一の8,000人足らずである。炭坑閉山後、誘致した企業も今では、県内屈指の優良企業にそれぞれ成長し、町づくりに大きな一翼を担い、町の発展に貢献されている。
そして、今年、民間企業の温泉誘致に成功した。幸運にも三年越しの悲願がかなったのである。ナトリウム塩化物泉、評判の天然温泉だ。慢性皮膚病、虚弱児童・慢性婦人病に効くらしい。今では、町内外はもとより県外からたくさんの人でにぎわう。すっかり町のコミュニケーションの場となり、拠り所となっている。
とりわけ、自然林に囲まれた露天風呂が好評。余談だが、わたしも町民の一人として足繁く通っている。湯に浸かると頭の中は、一切皆空・・・。殺伐とした騒久しさの中から、解放され、何よりも私の逃避・再生の場となっているのは確かだ。 
昨今、地方行政を取り巻く環境は、大きな転換期を迎えているが、戦後の急速な経済成長を背景に、物質的な豊かさの中で、生活環境が脅かされ、温暖化、環境破壊など地球規模の問題となり、地方の時代と言われる中、少子高齢化への対応と併せて、重要な課題となっている。
一方、殺伐とした騒々しさの中で、異常なまでの競争心理が人々を駆り立て、ものの考え方や価値観に大きな変化が生じている。
私たちは今、かつて先人たちが経験したのとは異なった厳しい状況にあり、このような時代こそ「温故知新―古きをたずねて新しきを知る―」この言葉の意味を思い起こしつつ、町の伝統、文化、歴史の上に立ち、町勢の発展にご尽力いただいた先人たちの足跡を探りながら、新しく現実を認識していくことが肝要ではないかと思っている。
本町では、「磨き輝く小さな原石・大町」を基本理念に、第三次総合計画を策定しており、そのキャッチフレーズが「挑戦。そして創造」を旨として喫緊の課題に果敢に挑戦し、町が幸せに暮らしていける住みよい町づくり、そして「新生・大町の創造」に身を投じていく覚悟である。 
終わりに、これまで培ってきた「ふれあいと信頼による絆」、これを私の財産として、次代に誇れる郷土の創造に邁進したいと思っている。