沖縄県竹富町長 大盛 武
現在、全国津々浦々に少子高齢社会に起因する過疎化現象がますます進行するなかにおいて、どうしても社会人口動態の数値に関心を呼ぶものであるが、殊に、経済社会状態を把握する指標とするものであることは紛れもない。そこで、果てしない日本列島の南の端に位置する最南端の町「竹富町」では、新しい胎動を感じている。それは、本町を知り思いを寄せている多くの関係者も同様なことではないかと思案しているところである。その胎動とは平成17年に国勢調査の結果を明確に残してくれた。それは、「全国的規模での過疎化減少が進行している中で、人口が5ヵ年間で18%増」が明るい展望を開いてくれたとの思いである。もう一つは、時代の潮流ともいうべきか、脱都会の風潮にあり離島ブームを呼び起こしたともいえようか、九つの島々に観光入込客の増加が顕著で、ついに2007年には百十万台に到達し、いまや好調に推移している現状である。島々にはその福音が訪れ「元気な町」に位置しているのではないかと自負している。
さて、南の「竹富町」の実像が見えないままでは、なかなか理解が得られないではないかと思う。竹富町の、全国にもあまり類例を見ない他の市町村と違った特異性を紹介したい。まずそれは、9つの有人島と7つの無人島からなる多島一町の島嶼の町である。このような町の構成を時の先人達がどのような政策・戦略で地方自治体を誕生させたのか検証したい。
それは、1879年(明治12年)琉球藩を廃して沖縄県誕生となる。所謂、廃藩置県である。勅令46号をもって沖縄県島嶼町村制が施行されて初めて八重山群島地域に一つの自治体「八重山村」として誕生したのである。当時としては、海上交通が現在のように発達しておらず、島々間の海上交通に非常に不自由・不便を囲い東西に40㎞、南北に41kmの海で隔てられた島々は広範囲に広がり、自治統治上非常に不便で行政効率が悪いとの理由から、35ヵ年間八重山村が八重山群島を統治した。1914年(大正3年)県令で八重山村は、石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ村に分村。なぜか、その当時竹富村は、島々で構成する「多島一村」の区割りに預かり、これが竹富町の地方自治体としての誕生となり、紆余曲折の歴史が築かれた。この間には、現在の石垣市が八重山郡の拠点地として発達し、経済の中心地としての位置は現在も同様である。しかし本町は、他地域に比して、自然資源や先人が残した文化遺産に浴して沖縄復帰の際、県内唯一の西表国立公園が設定され、「イリオモテヤマネコ」が生きた化石として重宝がられている。また一方、県内の、9つの国指定の重要無形文化財のうち、3つの文化財が指定されていることは、先人の逞しい足跡として子々孫々に継承発展していかねばならないと考えている。
このように先人達の貴重な遺産を預かる現世の私達は、大きな責務とそれを誇れる人々にもっともっと啓発してまいる所存である。これらは先人が汗をかき、知恵を絞り、村を創り、逞しく生き様が今日残された文化遺産である。ところが、この八重山では、有史以来、竹富町の島々を、「離島ナー」、「島ぐゎー」、と卑下した呼び名、そして最近は「島ちゃび」と愛称ともつかぬ呼び名で呼ぶのである。常に一歩下がった語感を与え、そこに住む人びと、その地をふるさとに持つ人びとに精神的屈辱感を与えてしまう。
例えば、全国「離島」振興協議会、また、「離島」振興とよく使用されることばであるが離島の定義、どこを基点にして呼ぶのか、中央集権的な視点ではないかなどが最近思い知らされるのである。私は、島々に強く、逞しく生きた先人たちに申し訳ないと思えばこそせめて島々に生を受け、神聖な温かいふるさとを「離島」と呼び捨てにはしたくない。心のともしびとして常に、「島びと」、「島々に住む人びと」と表現することを心から奨励し、念ずるものである。