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わが人生奇也

印刷用ページを表示する 掲載日:2008年2月11日

滋賀県多賀町長  夏原 覚


私の生家は、果樹園(桃)の生産農家。長兄は支那事変で傷痍軍人として帰還、次兄は大東亜戦争でビルマで戦死、3弟の私は旧中学校3年修了で中退し、家業を手伝い朝から晩まで桃の運搬等を頑張っていた。
23歳のある日、七月の夕方、にわかに雨が降り出し、雷鳴が鳴り響くなか、まっしぐらに帰る途中、野原にある大川に架かった土橋に乗るか乗らないかの一瞬、目もくらむ閃光に「パン、ドドド」と大爆音、落雷である。一瞬怯みながらも逃げ帰ったが、落雷の対象物は私のみの一面の野原、土橋に乗った途端であったのでアースしなかったのか?翌日現場に立つと、土橋のわずか50㎝手前に大きな穴が二つあいていた。奇なり。それ以後、私は、何かに守られている、神様に守られている、そんな意識を持つようになった。
また、25歳の時には、全国農村派米青年の滋賀県代表に選ばれ8ヶ月間アメリカに派遣された。帰国後は、まっさきに大農機具トラクターを購入し、山林の植林用の苗木生産業者に変業し、以後15年余、杉苗、桧苗の生産に励む毎日。そうした作業を続けていた時、大企業の社長と専務のお二人がハンターとして来町され、たまたま私が案内役を務めることとなった。2年程お付き合いさせていただいた頃、社長から「私の会社の仕事をやりませんか?」との話。「どんな仕事です?」「カラーテレビの部品作り」。昭和42年頃、カラーテレビの大普及で上昇一途の時代である。ひょんな出会いから会社をはじめることとなった、人との縁これまた奇なり。 
町長選に出馬?なんて毛頭考えはなかった。では何故?平成8年、町長選挙まで40日余りとなった日、突然拙宅への訪問者があり「実は今度3月上旬の町長選挙に出馬します。ついては、後援会の役員になってほしいのでお願いに参りました」とのこと。丁重にお断りするも、懇願は続き帰られない。思案に窮し「私が出馬したらどうする?」との全くの逃げ口上をうった。「それなら仕方ありません。帰ります」やれやれである。しかし、お聞きした話を思い出すと腑に落ちないことだらけ、そうなるともう許せない、よし己も本当に出馬して改革だ!(その時歴史が動いた)
大方の予想では、四分六で相手候補が勝つという選挙戦であったが、投開票の結果は、小差ながら私が当選。現在、3期目も最終盤に入って3月17日で終了であるが、これまで、小学校の統合、総合福祉会館の建設、農地の構造改革完成、保育園2園の改築、工業団地への企業10社の誘致完了等々、それなりの目的を達成できたと思う。また、昨年四月より県町村会長の大役を仰せつかる。全国町村会長会、要望活動、陳情運動、大会参加、県知事への要望活動等、充職の多いこと。町長への出馬、あげくには県の町村会長を務めることとなろうとは、思いもよらないことばかり、実に奇なりである。奇すべてが幸運に繋がっている。幸せなり。
多賀町には、全国的に有名な多賀大社がある。滋賀県の湖東地域の氏神であるが、全国にも約5万人の信者がおられ、年間の参拝者も170万人を数え、滋賀県最大の信仰、観光の名所となっている。ご神体の国生みの神、伊邪那岐、伊邪那美のご両神御夫婦神は、伊勢神宮の天照大神の御両親と云い伝えられている。
多賀大社のご加護であるのかどうか、それこそ神のみぞ知るところ。とは言え、喜寿を迎えた今思うのは、“誠に人生奇也”である。今年、4月22日の多賀大社春季古例大祭では、馬頭人という大役を賜った。近江湖東地域の名士の名誉ある大役と云い伝えられており、大変光栄なことと喜びお引き受けしたが、いまは、これまでの人生に感謝しながら、春を待ち遠しく思う・・・
「お伊勢参らば  お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
自然豊かな環境は良し 山碧く 水清く 心豊かな 多賀のまち
未来に希望を抱きつつ