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 人が輝き、心ふれあう豊かなまち

印刷用ページを表示する 掲載日:2007年9月17日更新

熊本県長洲町長  橋本 孝明
 
長洲町は、熊本県の北部に位置し、雲仙・島原を臨む有明海に面し(人口17,491人、面積19.43平方km:平成19年7月末現在)、古くから有明海を漁場とした漁業と、江戸時代に細川藩が数次に行った干拓地における農業との、半農半漁の町として栄えてきました。
しかし、昭和39年に新産業都市の指定を受けてから、臨海部の埋め立てによる工業団地の造成が始まり、半農半漁の町から一転して工業の町へと変貌を遂げてきました。このことにより、道路・上下水道などの生活基盤整備が急速に進められました。このようにして急速に進められてきたハード整備も、バブル景気崩壊以降の長引く経済不況などよって町財政を圧迫するようになってきております。
また、高度経済成長期以降の各家庭(個人)の生活レベル向上などに伴い、地域のつながりは相互扶助の関係から個々的な関係へと移り変わり、これらの状況の変化により地域のつながりが希薄なものへとなってきておりました。
そのため、長洲町では行政主導の政策からの脱却を図るとともに、地域性溢れる住民本位の政策を目指し平成12年度末に第四次長洲町総合振興計画(計画期間は平成13年度から平成22年度)を策定し、この計画の基本構想の中で「人が輝き、心ふれあう豊かなまち」を町の将来像として位置づけ、住民と行政との協働による住民参加のまちづくり施策を推進してきました。
~金魚と鯉の郷・ながす~
長洲町の金魚生産は300年以上の古い歴史があり日本最大生産地のひとつとして知られております。
当町に金魚が伝わったのは、はっきりとは分かっていませんが、寛永、正保、慶安の年間(1624~1652)に残っている細川藩の奉書の中で、長洲の金魚の記録があることが分かっています。つまり、約350年前には、すでに長洲に金魚がいたことがうかがえます。長洲金魚の名を各地に広めた背景には、多くの『ふれ売り』がありました。
「きーんぎょーえーっ金魚」という抑揚のある節まわしで始まる金魚の『ふれ売り』。傘をかぶり法被に地下足袋といった装いで、てんびん棒を肩に担ぎ、その棒の両端には桶というのが一般的なスタイル。桶の上には朝顔と呼ばれるガラス製の金魚鉢が乗せられ、ふれ売りの声とともに風流を感じることができました。昭和30年代の、この『ふれ売りさん』は、500人ほどいて、当時の金魚は、リュウキン、ヒブナ(原種)などが主流で西日本一円を周っていて、自然と長洲の金魚が各地に広まり有名になった背景には、この多くの『ふれ売りさん』があったようです。
現在、長洲町で生産される金魚の主な種類は15種類ほどで、生産される主な品種は、リュウキン、デメキンなどの金魚すくい用のものからランチュウ、江戸川リュウキン、ジャンボシシガシラなど観賞用の金魚です。出荷は九州全域を中心に西日本や遠くは青森県など全国規模で展開されています。
~一区一創運動の推奨~
住民参加のまちづくりに対する取り組みは、第四次長洲町総合振興計画策定以前の平成10年度から実施した「一区一創運動」の提唱を皮切りに行われてきました。これは、町内各行政区の地域コミュニティーを再構築することを主たる目的として町が推奨した事業で、1つの区に1つの顔を創るためのさまざまな活動を実施し、その過程の中で地域のつながりを深めようというものであります。町では、この取り組みをまちづくり事業の最重要施策に位置づけ、このような活動を行う行政区に対し町が支援金を交付し、失われかけた地域での人と人との連携強化を図っています。
~校区まちづくり推進協議会の発足~
また、平成13年度からは、地域の範囲を小学校区に広げた「校区まちづくり推進協議会活動」への取り組みを開始しました。「一区一創運動」で育成されてきたコミュニティーを生かし、小学校区単位でワークショップを実施し、これにより、校区の将来像・形成目標の設定、組織の立ち上げ、活動計画の作成、その実行までを行政の支援のもとに住民自らの手で行ってきております。
この取り組みの目的は、小学校区規模での地域コミュニティー強化と校区住民の自主的参加による良好な生活環境をつくっていくことであり、現在、校区の将来像に向けた取り組みが活発に行われています。
最近の活動においては、防犯・防災に対する取り組みなど住民の生活に密着した内容のものが出始め、他団体(組織)を巻き込もうという動きも出てきており、今後、行政だけでは担うことができないさまざまな分野での活動が期待されております。