山口県和木町長 古木 哲夫
和木町は、山口県の東部に位置し、瀬戸内海に面した、面積10.56平方kmで山口県では面積が一番小さい町であり、人口も6,600人余りの町であります。
その昔は、半農半漁の田舎でありましたが、田舎であるがゆえに、自然環境には恵まれており、特に一級河川「小瀬川」の豊富な水の恵みにより、まず製紙会社が大正時代に立地し、続いて大手の石油精製会社が、沿岸部を埋め立てて昭和の初期に進出。また、同じ時期に陸軍燃料廠も国家プロジェクトして建設され、田舎であっても活気のある田舎でありました。 しかし、終戦前の昭和20年5月10日、この日は静かな田舎が一変する日でありました。米軍による陸軍燃料廠と石油精製会社への空爆であります。その結果、多くの犠牲者が出る中、陸軍燃料廠と石油精製会社は壊滅状態となり、破壊されました。この出来事は、私がこの世に生を受けて6ヶ月後の出来事でありました。
戦後は、まず石油精製会社が復興し、その後陸軍燃料廠の跡地に、大手の石油化学会社が進出し、高度経済成長時代の幕開けを象徴する、日本で最初の石油コンビナートが誕生したので、多くの労働者も各地から集まり、地域全体が活気に満ちてまいりました。
こうしたことから私も、昭和41年に地元の役場に就職をしたのでありますが、小さな町に大手企業が三社も立地ということで、昭和40年代の町の財政は豊富で、一時期は財政力指数が400%を越える年次もありました。この恵まれた財政を糧にして、昭和41年には、村が都市計画事業であります公共下水道事業に着手したのであります。その後昭和48年に町制を施行致しましたが、僅か10年余りで町域の60%が完成し、昭和56年には、全域の公共下水道が完成致しました。今思えば、昭和の40年代から50年代の半ば迄のこの時代は、公共下水道事業以外にも大規模な公営住宅団地の建設や、庁舎の建設・幼児プールや学校給食センターの建設、町立保育所の設置、そして28の都市公園の建設に着手するなど公共事業のラッシュ時代の幕開けでありました。
そしてこの勢いは、平成の5年まで続き、町内には体育センターをスタートにして、斎場・図書館を備えた複合コミュニティーセンターや河川プールの建設・各地区への集会所の建設・文化会館の建設・保健相談センターの建設・都市公園の開園、更には130区画の団地開発等、町内に鎚の音が絶えない、活気に満ちた町づくりが進められたのであります。
平成5年10月、私は48歳で和木町の助役に就任したのでありますが、この頃から日本全体が右肩上がりの景気が一変して、バブルの崩壊という、暗くて長いいばらの経済社会へと突入して行くのでありますが、田舎ではその大変化の響きが届くのが遅く、地域開発事業としてゴルフ場の建設に町を上げて取り組み、平成7年に完成を見たのであります。その他にも、町の振興策として、再度130区画の団地の開発や、特別養護老人ホームの誘致、そして福祉会館の建設や町営住宅の建て替え、電波銀座ではありますがケーブルテレビ設備の敷設など、財政調整基金を取り崩しながら、厳しい冬の地方行政時代にあっても、町民へ光を与える行政施策を進めてまいりました。
そして平成13年9月、私は多くの皆様からのご支持を戴き、56歳で町長に就任いたしました。就任と同時にこの時期は、平成の大合併の渦中でありましたので、毎日が合併議論でありました。そうした中、町制30周年を迎え、その記念事業として、文化の町・和木町にふさわしい美術館を記念事業として建設いたしました。そして二期目の現在では、かねてより協議を進めていたJR新駅の設置について、お隣りの岩国市と共同事業として取り組み、JR西日本㈱との協議も整い、平成20年3月開業目指して事業を進めている所であります。更に平成21年には、和木中学校の校舎を建て替える事業も進めております。
このように、職務を通して私が歩んできた道を、今回は町のハード・ソフト事業のうち、ハードの事業を中心とした、町の歴史と重ね合わせて見ますと、町は、地域は、社会は、そこに住んでいる人々の意思を表す鏡であり、地方自治の大切さを思えば思う程、そこには明るい未来が努力に比例して、必ず開かれて来ることを確信している今日この頃であります。