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 運命

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年9月18日

佐賀県みやき町長  末安 伸之


「運命」というと、ジャジャジャジャーンで始まるベートーベンの交響曲第5番を思い浮かばれる人が多いのではないかと思う。「運命」とは?辞書を紐解いてみると「①人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐり合わせ。②将来の成り行き。」と載っている。 
私は、単純だからこの「運命」を読んで字の如く「命を運ぶもの」と理解・解釈し、運命は己の力でより良い方向に変えられるものと信じている。なぜなら、辞書の意味は自分の命を天や神が支配し、生まれたときから自分の人生が定まっている感がし、一個の生命体である自分からすると、なんともネガティブでたまらないのである。
何十億という人間がいる中で、縁あって両親がめぐり合い、そしてその両親からせっかく授けてもらった命である。自分の志に向けて幾多の難関を切り抜け、邁進していかずして何が人生であろうか。そうでないとせっかくこの世に生を受けた意味がないと思うのである。
先月、第88回全国高校野球選手権大会が数々のドラマを演じて幕を閉じた。私自身、中学・高校・大学と野球をやってきて、今も地域の仲間たちと草野球を楽しんでいるため高校球児の春・夏の祭典は楽しみの一つでもある。
そういう中で、今年の夏の甲子園ほど多くの感動を与えてくれた大会はそう無いのではないかと思っている。栄光の優勝を目の前にして、炎天下、一歩も引かぬ気迫と執念で闘い合った早稲田実業と駒大苫小牧の決勝戦、そして再試合。最後まであきらめず最終回の土壇場で、双方とも大逆転劇を見せてくれた智弁和歌山と帝京の準々決勝戦などなど、多くの人が高校野球の醍醐味に魅せられ、満喫されたものと思っている。
私はここにも「運命…命を運ぶこと」が存在したことを申し上げたい。スポーツや勝負の世界では、「勝利の女神が微笑む」という言葉がよく使われるが、勝負は初めから決まっているものではなく、女神も最初から存在している訳ではない。
勝利という栄光には、日ごろの努力・鍛錬、それに培われた気や力が必要なのではないだろうか。あの高校球児たちも、日々の練習を糧としたみなぎる自信(気)と技術(力)を余すところ無く発揮し、あれだけの物凄い試合を魅せてくれたのであろう。まさに「魂と魂」が存分にぶつかり合い、命を運んだ結果なのだと、自分の「運命」に対する勝手な解釈に意を強くしているところである。 
さて、私自身は光栄にも、旧中原町・北茂安町・三根町が合併して平成17年3月1日に船出した新生「みやき町」の舵取りを町民の皆さんから任されているが、早くも一年半が過ぎ、その時の早さに驚いている。この間、広域行政の多様さに苦慮し、難しさを首長として痛感しているところである。ここ数年、社会や産業などあらゆる分野がものすごいスピードで大きく変革している時、政治・行政には的確で迅速な対応が求められていることは間違いない。日々、起こりうる様々なことに思行(考え、行動すること)し、務めているつもりであるが、反省することも沢山あり、多くの教訓を与えていただいている。また、喜びや悲しみ、感激や感動など当職でなければ経験できないことも数多く体験することができ、今、改めて感謝の気持ちで一杯である。 
我々首長は、住民の皆さんの生活・命をお預かりしている以上、常に「主役は住民の皆さん」であり、平成5年に旧中原町の町長に就任して以来、指針としてきた「主権在民」の立場を今後も忘れる事なく持ち続け、主権者たる住民の皆さんの代理人として日々務めていかなければならないと思っている。この思いを揺るぎない道標として、いろんな所に足を運び、健康づくり、人づくり、まちづくりなどに自分の命を運ぶことはもとより、多くの人々の命を運ぶお手伝いに邁進していくことが、私に与えられた「運命」である。