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 富士川~不易流行~

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年8月28日更新

静岡県富士川町長  坪内 伸浩


富士川の瀬々の岩越す水よりも早くも落つる伊勢平氏かな」  鴨 長明『方丈記』
日本三大急流富士川に見立てて、平氏方の敗走ぶりを表しています。この急流河口近くの西岸に位置しているのが、富士川町です。川名は「ふじがわ」と呼ばれていますが、町名は「ふじかわ」と濁りはありません。ただ、付近の住民は、川も「ふじかわ」と呼んでいます。
この川は古来より日本の東西の境目と言われ、自然、歴史、文化あらゆる場面で、東西の比較がされています。例えば、蛍の点滅時間。西は2秒の間隔に対し、東は4秒です。電気の周波数は西が60Hzに対し東は50Hzです。冒頭の「源平富士川の合戦」も東西の雌雄を決する戦いの始まりです。1180年10月20日夜、甲斐源氏武田信義一隊が動いたのに驚いた水鳥の大群が、一斉に飛び立った。平氏方侍大将上総守忠清の先陣は夜襲と勘違いし、鎧をすてて京に逃げ帰ります。当町の「物見堂」という地名は、平氏方の最東端の物見跡に由来しています。現在は東名高速道路富士川サービスエリア付近で、富士山と富士川の眺望地点として多くの人が休憩しています。
今年5月に町長選挙が行われ、私は第36代目町長として就任いたしました。個人では3期目になります。その際の最重要公約に、対岸の富士市との合併を実現することがあります。
近世までは、暴れ川「富士川」は東西を分断するものでした。明治以降、東海道本線、旧国道1号線、現国道1号線、東名高速道路と次々に開通し、近々には、第二東名も開通するでしょう。さらに、新々富士川橋架橋も着手され、川は人・物の流れを遮るものではなくなっています。行政圏域は昔ながらの静岡市側の県中部に属していますが、町民の生活圏域はどんどん東に移り、富士市側と一体になりつつあります。町民の福祉向上を考えれば、行政圏域を変えることを選択すべきだと判断したわけであります。不交付団体である富士市との行政事務合理化が実施されると町民へのサービスは安定し質的向上も考えられます。
今、次の100年間のまちづくりを考える上で、2つの事業を実現したいと思っています。一つは東名富士川サービスエリアの活用です。平成12年3月、日本で初めて、高速道路と道の駅を連結した「富士川楽座」を開業しました。公設民営方式で、「川の科学館」と商業施設の併設型です。開業以来、年間250万人の来場者と約15億円の売り上げを持続しています。それまで、県内町村で最低の観光入込客数の町が、一気に県内トップに上がりました。現在、さらにレベルアップを図るため、サービスエリアにスマートインター(ETC専用出入口)を実験導入しています。上り線の出入口と下り線の出口が設置され、大変好評です。今後、下りの入口設置と恒久的運営を目指し、知恵と財源を絞り出しています。
もう一つの事業は、歴史的建築物の活用です。明治42年竣工した「 古谿荘(こけいそう)」が、昨年12月に国の重要文化財に指定されました。近代和風建築の特徴が、往時のままの状態で残されている点が評価されています。時の宮内大臣・田中光顕伯爵が建てた延べ面積約700坪の大規模木造邸宅です。昭和11年に講談社初代社長、野間清治氏が買い取り、現在、(財)野間文化財団の所有となっています。1万7千坪の敷地内には、回遊式日本庭園と果樹園も当時のまま残されていて、注目度ナンバーワンの文化財です。今後、国・県・所有者と協議と再生事業を重ね、できる限り早く、公開できるよう努力していきたいと思っています。 
最近、「不易」について考えています。「富士川町」は明治以降の行政組織の名称であり、たかだか100年。住民は縄文時代から住み続けています。「古谿荘」も建物は変わらないが、所有者、利用形態は変わっています。サービスエリアも10年で変わっていますが、人が行き交う場所としては、鎌倉時代から変わっていません。これから合併という試練が始まりますが、当地域の持っている力は、ますます増大されると確信しています。
「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」     鴨 長明