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 人生は出会い

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年7月24日

神奈川県湯河原町長  米岡 幸男


私たちのまち湯河原は、「足柄(あしがり)の土肥(とひ)の河内(かふち)に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに」と、ただ一首、温泉が万葉集に詠まれたほど、遠く古より湯治場として栄えてまいりました。
明治以降には、文人墨客の静養地、創作の場として発展し、国木田独歩、芥川龍之介、島崎藤村、夏目漱石など文豪が訪れ、多くの作品を残し、また、竹内栖鳳、安井曾太郎、谷崎潤一郎、山本有三が居住した文化の香り高いふるさとです。
しかしながら、時代のすう勢には抗う術もなく、風化されつつありました。「これら町民の共有財産である自然環境と歴史、文化を守り育て、後世に伝える」を公約に、平成七年五月、町長に就任いたしました。
進めてまいりました「四季彩のまちづくり」は、期間中六十万人を超えるお客様を迎えるまでになった湯河原梅林をはじめ、あじさいの郷、さつきの郷、そして、この秋一般公開する、もみじの郷で一つの区切りとなります。今後は、それぞれの点を線で結ぶ自然散策ルートとして、木道の整備に取り組みます。
私は、生まれる前に父を亡くした七人兄弟の末っ子です。 
「人生には多くの出会いがある。その出会いの中で、特に初対面の相手とは良い印象で別れるがいい。再び会える人には悪い印象を与えても挽回のチャンスはあるが、別れたままの人には生涯悪い印象しか残らないから」。三十二歳の時、失った母からの数少ない教えの一つでした。 
京都の老舗旅館の主人と出会ったのは、昭和四十三年。私のような若輩を覚えていてくれたことが何よりも嬉しかった平成十二年の再会。京都で生まれ、湯河原で終焉を迎えた竹内栖鳳が残した作品を主体とした美術館の開館を機に、京都市と姉妹都市を結びたいと、京都市長への無謀な橋渡しをお願いした時でした。「国内で姉妹都市を提携している都市はありません」と丁重にお断りされましたが、京都市観光協会長の要職にあった氏の「小京都では」との計らいで加盟への申請をしました。
それから一年後、病床で息を引き取る間際まで、「湯河原の小京都はどうなったか」と気に掛けてくれていたと、後に女将から伺い、胸がつまりました。
年末、それに議会とも重なり弔問できませんでしたが、年が明け、高台寺に墓参りした折、葬儀委員長が茶道の家元、十五代鵬雲斎宗室であったと知り、氏の人脈の広さに敬服いたしました。
すべての人に出会いがあります。それは、その人の人生を大きく変える出会いもあれば、致命的な出会いもあります。
大切なのは、そこから新しい人間関係が生まれ、やがてよき人脈となっていくことだと思います。
その年の六月、小京都に認定され、京都ゆかりの市町で構成される全国京都会議に加盟いたしました。
悠久の歴史と伝統を伝える小京都の仲間として多少引け目はありましたが、ここでの出会いを大切に、胸を張って二十一世紀幕開けの記念すべき年、「全国京都会議」の主催地となり、湯河原を全国に紹介することができました。
日本全国には、日本人の心のふるさとと言われる京都に似た歴史と文化の香り高い町が多く存在しています。
それぞれの風土に歴史を積み重ね、独自の文化を育んできた五十四の市町が、静けさをテーマにしたまちづくりの施策を、惜しげも無く積極的に提案されました。
時空を超え、京都から伝えられた様々な文化は、それぞれの風土や気候と出会い、異なる一つの文化として各地で花開いています。
文化は、一部の専門家がつくるものではありません。住民一人ひとりの活動が文化を形作っていく。これからも湯河原の個性を生かした新しい文化の創造に努めてまいります。
三方を山に囲まれ、京都にはない海を望む湯河原。
季節の移ろいを感じながら、「四季彩のまち・さがみの小京都湯河原」で新しい出会いをしてみませんか。