宮崎県椎葉村長 椎葉 晃充
椎葉村は、「平家ロマンの里」と言われます。それは、1185年源平最後の戦壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武士たち、道なき道を逃げ平家の残党がようやく辿り着いたのが、山深き椎葉の里だったのです。しかし、この隠れ里も源氏の総大将頼朝に知れ、那須の与一宗高が追討に向かうように命令されるのでありますが、病気のため代わって弟の大八郎宗久が追討の命を受けることになりました。椎葉に向かった大八郎、険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見しましたが、かつての栄華もよそにひっそりと農耕をやりながら暮らす平家一門の姿を見て、哀れに思い追討を断念。幕府には討伐を果たした旨を報告しました。普通ならここで鎌倉に戻るところでしょうが、大八郎は十根川に屋敷を構え、この椎葉の里にとどまったのです。そればかりか、平家の守り神である厳島神社を建てたり、農法の方法を教えるなど彼らを助け、協力し合いながら暮らしておりました。そして平清盛の末裔である鶴富姫との出会いが待っていました。
いつしか姫と大八郎にはロマンが芽生えました。民謡「ひえつき節」にもあるように姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に二人は逢瀬を重ねます。そしていつしか大八郎はこの椎葉の里に安住する決意を固めるのであります。村中の祝福の中、鶴富姫は子どもを身ごもります。ところがそこへ幕府からの召還命令。それまで幾度となく拒んできた大八郎ですが今度ばかりは逃れそうにありません。姫に名刀天国丸を与え「其方懐妊我覚えあり、男子ならば本国下野に差し超すべし、女子ならば遣わすに及ばず宜しく取り計らうものなり」と涙をのんで住み慣れた山里を後にするのです。生まれたのはかわいい女の子。姫は大八郎の面影を抱きながらいつくしみ育てました。後に婿を迎え、那須下野守と愛する人の名前を名乗らせたそうです。これが、平家落人伝説又平家ロマンの里と言われる由縁である訳です。
また本村は「民俗学発祥の地」とも言われておりますが、当時農商務省の役人として九州視察の旅にあった柳田国男が椎葉村に足を踏み入れたのは、明治44年の夏のことでした。当時の村長中瀬淳は、7日間柳田氏と同泊しながらつきっきりで村内を案内しました。このときのことを、後に次のように語っております。
「山の中に入って狩りの好きな村長と一緒に方々を歩いたのです。その村長が話してくれた山の守の信仰、それが実に面白い。ふしぎでたまらない。これはぜひ調べてみよう。とまあ、そういうようなことが起因となってこの方に入ったわけです」と。そしてこの山里で聞き書きした狩猟儀礼の伝承をまとめ、翌年『後狩 詞記(のりのかりのことばのき)』を発表し、日本民俗学の誕生を告げる記念すべき名著となったのであります。
また、作家吉川英治も椎葉に魅せられた一人と言えましょう。『新平家物語』の中で彼は、椎葉をこの世の理想郷として描いています。そこでは敵も味方もない。富も権力も意味を持たない。戦い、憎しみあってきた源氏と平家の間に美しい恋さえ芽生える。「人はなぜ争うのか」という問いかけを彼は椎葉での那須大八郎と鶴富姫の物語に託しています。『新平家物語』は桜の咲く吉野山で麻鳥と逢の夫婦が権力の空しさについて語り合う場面で終わりますが、彼はこの最後の場面を椎葉にしようと考えていたのではないかと思われます。それは、昭和26年に書いた「新平家雑感」の中で「最後の場面はやはり壇ノ浦ですかとよく人に聞かれることがあるが、自分の今の考えでは壇ノ浦以降、椎葉山中のような平家村の生態までを、そしてある一時代に平家文化を咲かせた人間の集団と大自然との融合までを心ゆくまで書いてみたいと思っている」と。
戦いに敗れ生き延びた人々とそれを追う源氏の一行を椎葉の大自然は迎え入れた。両者が戦うことを放棄し、互いに助け合って生きる道を選ぶに至ったのはあまりにも厳しくそして美しいこの自然の力によるものではなかったでしょうか。
この大自然を守り続けることが、今を生きる私たちの責務であると思います。