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 思い出すこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2006年2月27日更新

徳島県山城町長  西 徹


昭和の合併の当時、私は町職員でありました。
当時は、敗戦後の国力の低迷による慢性的な不況の中で、職員の給料も払えない町村がありました。住民の中には、何とかしなければならないとの切羽詰った切実感があり、一方強力な政府の合併推進で、合併に反対する人や合併の組み合わせをめぐっての血腥い論戦もありましたが、不況からの脱出を考える大勢によって合併は実現されました。
今回は、住民が平和に暮らしているとき、突然に合併政策がとられました。平成12年に成立した地方分権一括法による、「住民に身近な事項は地方で」との考えと、分権された事務処理能力の問題が議論され、地方の、特に弱小の団体の処理能力を強化する方法としての町村合併が提起されたわけです。
然るに、地方分権は一向に進展しない中、次第に増加する国、地方の借金対策が論議されるようになって、市町村合併推進法が制定されました。今や地方と中央の間では、地方分権をめぐっての問題と、財政再建の問題とが重なり合って論議が沸き上がっています。
財政を建て直すことと、町村合併を同一の視点において考えていると思われます。借金体質からの脱皮の為なら、合併特例債などを考えないで、素直に国民に協力を呼びかけるべきではなかったか。町村合併が完了しても、国民の中に財政に頼った甘えがある限り、合併はできても、合併後はうまくいかないと思います。
昭和48年の石油ショック後の不況の中、総需要抑制の掛け声の中で、昭和50年の統一地方選挙の中で当選した私は、翌51年からの国債依存による景気対策に依り、公共事業中心で山上に点在する集落を便利にする道路改良を積極的に推進しました。私が町内の道路改良に携わったのは、昭和42年の山村振興法や林業構造改善が始まったときからでした。
山頂から拓けた当町では、明治初年に作られた国道(現国道32号線)と、その支線の県道があったのみで、集落との連絡道はありませんでした。緊急対策として架線による連絡が行われていました。モータリゼーションの幕開けもあって、自動車も徐々にではありますが、二輪車、四輪車の順で入ってきました。そんな中での道路作りだったのです。先ず町内の医者から自動車が入ってきて、住民から往診時に利用できるよう、道路改良の要望がでてきました。従って、用地交渉は容易でありました。 
しかし、昭和58年には、公債費比率が18を超えるようになり、財政健全化計画を立てるよう、地方課から指導を受けるに至りました。
道路建設を止めないで、公債比率を下げる方法として考えたのは、地方交付税で措置される町債のみに依存することでありました。
他方、私の試算していました町債総額に占める交付税率は、加重平均すると62%程度でありましたから、町債総額の約30%を目標に積立金を作り、返済に備える方法でした。この方針は、昭和60年に庁内に通達して徹底を期しました。
昭和64年に至り、わが国の景気は最高になりましたが、平成になっては、不況の連続でした。その後は、借金の積み重ねを続けてきたことがご承知のとおりであります。
借金体質からの脱皮は、地方も国と同様に考えねばなりませんが、今回の合併は、合併メリットによる地方交付税の減少を急ぐ余りに、基準財政需要額の個々の検討がなされていません。このままだと広い面積を持った弱小の町村は消え去るだけです。地方自治や地方の文化は、空洞化します。
地方交付税の不足財源保障機能の外、財政調整機能を働かせて、真の地方自治と国土を守ることを考えねばならないと思っています。