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地域住民は宝の山

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年12月19日

地域住民は宝の山

群馬県大泉町長  長谷川 洋


本町は、高低差5mという平坦な地、年間日照時間は2,000時間を越え、台風などの災害がほとんど記録されていないのがこの地域の地理的特性です。農業主体の暮らし振りが一変したのは、軍需産業として中島飛行機製作所小泉工場が昭和16年に開設されてからです。敗戦までの期間、多い時期は6万人の従業員が働いていたと言われており、記録を当たってみると工場開設以前に比べ戦後の21年の人口は2.5倍になってい ます。全国から集まった人達が定住化したわけです。

私事ですが、昭和42年の夏休みに姉弟3人で北海道旅行に行った折、根室本線の込合う車内での雑談で出身地を尋ねられました。群馬県大泉町と答え、以前は小泉町と大川村だったと言い添えると、その男性は懐かしそうに、戦時中、中島飛行機製作所で働いていたと語りました。戦後、彼は故郷の帯広に帰ったのだと。それを聞いたとき、我が町に全国から働くために来ていた人がいかに多かったかを実感したものです。

戦後の混乱期、この町には米軍が駐留し、緊張の続く時期もありましたが、昭和32年に合併して新たな歩みをはじめる事となります。そして34年大手電機会社が進出する事で新たに全国からの人材がこの町や近隣市町村に移り住むようになりました。

再び私事で恐縮ですが、町の議員になって沖縄に視察に行った時の事、土産を物色していたA先輩議員が突然大きな声を出してもう一人のB先輩議員を呼びました。実は、売り子の女性の妹さんが、我が町の電機会社に就職しているらしいのです。呼ばれたB議員は、その電気会社の出身で、よくよく話を聞くと偶然にもその妹さんと同じ職場だった事がわかり、和やかさが更に増したのでした。その店でほとんどの土産を購入した事は言うまでもありません。

全国から人々が集まり定住化する事を都市化と定義するならば、本町は早い時期からその傾向が強くありました。しかし本町にとって強みになったのは、定住化した人のほとんどが、この地を故郷と位置付けている事です。戦中から住み始めた人も、電機会社進出以後異動してこられた人もその意識に大きな差はありません。しかも新たに住み始めた人に対しても、寛容と協調の姿勢で接している事です。「地域に溶け込むのにとても自然に入っていけた」との声を聞くのは珍しい事ではありません。

その大きな役割を果たしているのが、32行政区にある22の地域公民館です(複数の区で共同運営している地域公民館があります)。この活動は地域での、自主運営・自主財源を基本に行っていて、地域でのほとんどの世代を対象にする活動が展開されています。

私も地域の公民館役員を経験しましたが、年間に行われる行事に関わる中での出会いや交流、知らずにいた地域のやり方など、より深い活動と経験ができたと受けとめています。そうした感慨は役員経験者のほとんどに共通のもので、館長OBによる組織が連綿と続いているのもそこに基点があるのでしょう。

さて、その活動に大きな弾みをつけたのが昭和58年に実施された国民体育大会の少年女子バレーボール大会の招致でした。宿泊施設の無い町で地域公民館を地域の人のボランティアの力と共に活用して成功に導いたのです。この成功体験の自信が、地域の力として定着したのです。現在は文化活動の発表の場を秋に行い、スポーツの面では秋の体育祭を地域公民館対抗として位置付けその内容を競っています。

地域活動で獲得した知恵をいかにまち作りに発揮していただくかが行政に求められていると考えています。その手始めとして「ふれあい座談会」を開催し、行政への積極的な参画を促そうと進めているところです。多彩な人材の力をいかに活用していくか、参画の実践を進めるか、厳しさを増す地方行政にとって大きな課題であると共に宝の山でもあります。