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 父祖の足跡をたずねて

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年9月19日更新

鹿児島県さつま町長  井上 章三


小さい頃は父母に連れられてよく墓参りをした。さまざまな形で居並ぶ祖先の墓を見ながら「どんな人達だったのだろう」と、子供心に興味深げであったと覚えている。
約30年ぶりに故郷に還り、町長職を務めることになった。都会での生活が長かっただけに、ふるさとの空気と水、風土は懐かしさで一杯だった。そんなある日、隣に住む本家のおじが墓の話をした。
曾祖父の彦五郎さんの墓には『丁丑ノ乱 西郷隆盛ニ従ヒ 2月11日出兵 明治10年旧4月18日肥後人吉ヨリ八代ニ通ズル間道テイカク岡ニ於テ戦死 行年44』となっているが、このテイカク岡という場所がどこなのか、どうにもわからない。」
この時から、私の祖先の足跡を探す旅が始まった。熊本県の人吉市は県境の峠を越えた地であり遠くはない。種々の機会に人に尋ねて見るが、どうもよくわからない。戦死した日を頼りに戦さの場所を辿るなかで「わかった」との知らせが来た。テイカクは「照岳(テルカク)」だったのだ。そこは、人吉市上原田町馬草野近くの岡だった。
明治10年5月30日(旧4月18日)の前後に、この地で「照岳の戦い」と呼ばれる激戦があった。当時について古老の話では、「家の近くまで鉄砲の弾が雨あられのように落ちてきた。後で岡に登ってみたら、人の頭がゴロゴロしていた。」などと、その当時のすさまじい状況が語り伝えられていたとのこと。そしてその時の戦さにより村は全部焼かれてしまっていた。驚いたことに、集落では、その時から今日に至るまで毎年、その日を「焼けよけ」(焼けたための休み)と呼ぶ慰霊祭を続けてきているのだという。
平成15年の7月、私は家内と共に、土地の古老に案内してもらいながら、その岡に登った。天候は悪くなかったはずだったが、途中から雨が降り出し、雷までゴロゴロと鳴り出した。私たちは、線香と花を手向け、記念の写真を撮って岡を下った。
翌16年4月18日、私たちは再び馬草野に向かった。なぜかその日も雨がひどかったが、照岳に登っている間は雨が止んだ。そして念願の「焼けよけ」の祭りに参加した。西南の役から127年目の「焼けよけ」記念日、馬草野の人々は大変喜んでくださった。
彦五郎氏は、明治4年に始まった特定郵便局制度による初代の局長だったが、西南戦争が始まると、息子に代わり自ら出征した。44歳、最年長だったと聞く。息子の納治郎氏(私の祖父)は小さい頃足を怪我し、戦さには不向きであった。
「激闘田原坂秘録(肥後評論社)」は、次のように締めくくっている。
「222日にわたり死闘が続けられた西南戦も、この日終焉した。官軍の死者6,843名、戦傷者は9,252名に達した。薩軍の死傷者もこれに劣らず15,000名を数え、両軍で30,000を超える尊い犠牲が払われた。思えば、これほど悲惨な戦いはなかった。討つ方も討たれる方も、ともに維新の偉業を成し遂げた盟友であった。親兄弟が骨肉相はみ、中の良かった同郷の親友たちも敵味方に分かれて戦った。のちに、戦場の跡には地元の人たちの手によって、記念碑や石碑が建てられ、死者は厚く葬られたが、いまも香煙が絶えることがない。」
明治維新、戦後の改革に続く第3の改革期といわれる今日、英知をもって最小の犠牲で新の改革が実現することを期待して止まない。