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 雑感・町村合併が終わって

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年9月5日

和歌山県みなべ町長  山田 五良


平成16年(2004年)10月に、旧 南部町・南部川村が合併して「みなべ町」が誕生して10ヶ月が経ち、態勢づくりや新まちづくり計画、また予算もできて、この4月から実質新町政をスタートさせることができた。
新まちづくりの要諦は、一体性の確立にある。一体化は物心両面にわたるが、心の一体化は一つ間違えば修復がきかなくなるだけに、最も神経を使った点であった。また物事は最初が大切であり、第一ボタンのかけ方が将来を左右することになるので、その意味から平成17年度予算は厳しい財政状況下であるが、単年度分に止まらず、将来の基礎となる内容を含めた予算編成に意を用い、新町民に夢と希望を持たせることに努めた。
私はたまたま昭和の合併の時(1954年)、旧上南部村職員として、当時の合併事務を担当した経験があったので、時代と立場の違いはあっても、今回の合併推進にはずいぶん役に立ったことであった。
ところで、「平成の合併は理念なき合併である」と言われてきたが、それを否定できない面はあったと思う。昭和の合併では強引な手法で推進されたこともあったが、地方の住民も戦後間もない混乱期であったこともあり、何とかしなければならないという、切羽詰まった切実感があって、それなりに時代の要請を受け入れられ易い素地があった。
今回は住民が平和で楽しく暮らしているところへ、市町村合併という雷雨がにわかに襲ってきた。まさに青天の霹靂の出来事である。むろん国家財政から発生した積乱雲であったことは承知していたが、それならそれと初めから国民に素直に訴えれば良かったものを、持って回って色々な理屈をつけて、分かりにくくしてきたことが、理念なき合併だと酷評を受ける因をつくったことになったと思う。
私は、今回の合併は地方が自らその理念をつくらねばならないと思い、その方向で取り組んできた。しかし自立だとか個性あるまち(むら)づくりをと、煽ててくれるのはいいが、さて地方が個性あるまちづくりに取り組んでいけば、今度はそれが贅沢だとか、税金の無駄遣いだとか言ってクレームをつけてくる。
また折角つくり上げたまち(むら)は、合併によってその個性が希薄化し、あるいは埋没してしまうことになり、今までの苦労は水泡に帰すことになる。私が広域合併から離脱した所以もここにあった。
合併の達成と新町まちづくりには、その関係町村職員の資質と努力によるところが大きい。合併までは資料づくりや行政調整の苦労があって、合併すれば職場の融和が最も大切なことになる。誰だって、従来の慣習慣例を変えることに抵抗を感じるだろうが、それを我慢し合って、大局に身を置く寛大さが求められる。幸い、我が「みなべ町」の職員は、それらをよく心得てくれたことが合併成功の要因の一つとなっている。
町村合併には数々の問題が残されているが、合併により任期途中で失職される町村長の淋しきご心境を無視するわけにはいかない。 
町村長は合併問題には塗炭の苦しみを味わっている。そのため健康を害し、中には尊き生命を失う事態もあったと聞く。私はそれらを合併病だと称している。法律の下、取り組まなければならない使命と宿命であるが、公のためには身を鴻毛の軽きに置いているとはいえ、それだけの苦労を背負って合併が成立すれば、任期途中であっても、いとも簡単に失職の憂き目に遭わされているのをみるとき、同じこの界に身を置く者として、一抹の哀感は拭い難きものがある。
とにかく、昭和の合併を担当し、半世紀を経て、今また平成の合併を成し遂げ、一生に二度も町村合併に携わり、地方行政の歴史が動いた一齣を担うことができたことは、我が人生に悔いなしと世上万物に感謝しながら新町建設に邁進したいと思っている。