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比庵と陶源郷ましこ

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年8月1日

栃木県益子町長  平野 良和

  ほのぼのと
       むらさきにおう朝ぼらけ
  うぐひすの声山より聞こゆ

昭和41年、歌人清水比庵が新年の宮中行事、「歌会始」の召人として詠んだ歌である。この年のお題は、「声」であった。比庵は明治16年、岡山県笠岡市の生まれ、短歌会「窓日」などを主宰し、歌書・画、三位一体の独自の作風を示した。また昭和5年から9年間、日光町長を務めたという文武両道の人であり、日光市の名誉市民でもある。
  下つ毛野の
       芳賀のこほりの益子町
  陶ものどころけぶりたちのぼる

比庵が初めて益子を訪れたのは、昭和29年の初夏であった。この平明な歌に、比庵は目に映った益子の全てを内包させたのだろう。東に連なるたおやかな山々、その山あいから流れでる小川は田園を潤し、西を流れる小貝の清流に注ぐ。山ふところに点在する家並み、その所々から陶を焼く窯の煙が立ち上っている。比庵はその勢いよく上る煙に、窯業地を訪れた実感とともに、そこに住む人々の生活の確かさを見たのである。幸いなことに、今も大きくは変わっていないこの情景こそ、私たちが守り、そして伝えていかなければならない、益子の原風景である。
  益子のや
      平野山庭あさあけて
  きりたちわたる平野山庭

比庵は、益子の風土、陶芸を好み、昭和30年頃より毎年のように訪れた。風景を愛で、歌を詠み、窯を訪れては、皿や壷などに筆を走らせていた。わが家が、益子での定宿であり、これはその当時の歌である。
好々爺であったが、二階の廊下を行きつもどりつ、ぶつぶつ言いながら苦吟している姿が、小学生の私の目には奇異に映ったものである。比庵の書は、自由闊達な独特のもので、見方によっては稚拙にも見える。偉い先生と聞いていた私は、口にこそ出さなかったが、子供心にそう思っていた。
ある正月、玄関に掛けた比庵の書を見た年始の客が言った。「これはハナ肇の書いたものですか。」思いがけない問いに、絶句した父。比庵は、晩年落款の所に、年齢を記すことが多かった。ちなみに、この書には「八十一比庵」とあった。クレージー・キャッツ全盛の頃のことである。
さて、地方分権の論議が盛んだが、国の思惑と地方の期待とには、かなりのギャップがありそうだ。しかし、自主的かつ個性的な地方のあり方が問われていることは確かであり、特区など個性を模索する試みが全国各地でなされている。
個性ある町づくりへのアプローチに欠かせないものは、俯瞰的な視野の中でその町がどのような役割を果たすかという視点であり、それによって自ずと個性は顕在化する。
21世紀、わが益子はどのような役割を担うのか。東京を核に膨張を続けるメガロポリス、つくばエクスプレスの開通で、より高度化する知性都市つくば、新首都構想で話題になった、新生日本のシンボル那須野ヶ原。これら近郊都市に囲まれた地理的条件を生かし、都市生活に倦んだ人々のふるさと回帰の受け皿として、豊かな自然と人情味あふれる生活を提供し、さらに陶芸を中心とした工芸的風土を背景に、国内外の人々の知的好奇心を満たす。それが益子の果たすべき役割である。
「うぐいす」は町の鳥、冒頭の歌はまさに、益子の風情そのものである。益子は未来に亘り、緑と心そして文化のオアシス『陶源郷ましこ』として在りつづけたいものである。