東京都三宅村長 平野 祐康
東京から南に180km、伊豆下田から約80㎞、黒潮の流れに浮かぶ三宅島は、温暖な気候と多量の雨がもたらす緑に囲まれた自然豊かな島である。周囲は、約35㎞、面積55平方kmで、伊豆諸島の中では3番目に大きい島で、人口は3,800人であった。主な産業は、マリンスポーツやバードウォッチングといった、自然を活かした「観光」や観葉植物や、アシタバ、アカメイモ栽培などの「農業」、カツオやカジキマグロ、タカベ漁、天草、クサヤなどの「漁業」がある。島は、富士火山帯に属し、近年では1940年、1962年、1983年とほぼ年周期で噴20火を繰り返したきた火山島である。
今回の噴火活動は、2000年6月26日18時30分頃から、島の西地域を中心として、有感を含む地震が起き始めた。当時から三宅島には、地震計等種々の観測体制が備わっていたので、震源の決定も短時間のうちにでき、また過去の事例から噴火に至るまでの時間はごく短いので、19時33分に緊急火山情報第1号が出た。しかし、いつもの噴火と違って、なかなか溶岩が噴き出さないで、その後も度重なる地震があり、週末ごとに雄山は噴火と降灰を繰り返していった。さらに、8月18日17時過ぎには、それまでの規模を大きく超える噴火が起き、噴煙は8,000~10,000mまで上がり、降灰は島全体に及んだ。西側では直径10㎝、山の中腹では0.5~1mもの噴石も落下した。
その後、小規模な火砕流も発生し、誰しもがこれはいつもの噴火と違うと、身の危険を感じた。ついに2000年9月2日7時00分、防災関係者を除き、9月2~4日の3日間の間に全ての島民に対して、島外避難するよう、避難指示が出された。
当時、私は役場の財政課担当であったが、島民が都会での避難生活を送ることになり、竹芝桟橋に近い港区の東京都公文書館内に、三宅村東京事務所を開設し、その所長となった。まだこの頃は、来年の桜の咲く春には帰れるだろうと、のんびり構えていた。しかし、厄介なことに、雄山からは火山性のガス(特に二酸化硫黄)が大量に放出されていたのだ。この為、長期の避難生活を覚悟しなければならなかった。
もともと、私は大学生活以外にふるさとを離れたことがなく、都会での生活はあまり好きではなかった。それがなんとJR田町駅近くの公社住宅に仮住まいすることになり、妻と二人暮らしが始まった。島との一番の違いは、朝起きても海も山も見えないし、鳥の声も聞くことが出来ないことだった。耳に入ってくるものは車の騒音で、鉄と油の混ざったような臭いもした。隣近所の人との付き合いもほとんどなかった。おそらく高齢の島民も慣れない都会生活に困り、ストレスも溜まったと思う。
その後、東京都の配慮により、新宿の都庁第一庁舎41階に、「三宅村役場臨時庁舎」を構え、島民への支援策・事務処理が開始された。その頃、私は満員電車に疲れ、新宿駅から都庁までの人波に疲れ、都庁の中では仕事に疲れ、という毎日だった。ある日突然、このままでは自分が負けてしまうと気づいた。行政マンとして、もっと自分の時間を持ち、島民への支援策を考える時間を持とうと思い、通勤時間を変更し、早めに家を出ることにした。都庁に行く途中のコーヒーショップで、ゆっくりコーヒーを飲みながら、一日の業務行動スケジュールをたてるようになった。その結果、生活に余裕が持て、良かった。
特に長期避難に耐えるためには先ず、気力・体力・学力が大切と思い起こし、ストレス解消も兼ねて、あらゆる地域を自分の足で歩いてみた。川崎、横浜、新宿など、都会を歩いて見つめ直した。小さな発見もあったが、すれ違う人は知らない人ばかり、島では家から一歩出れば知らない人はいないのに。そして、これだけでは物足りず、北区の野球クラブに所属した。このクラブはいろいろな職業の人の集まりで、好きな野球をしながら人生の諸先輩方の話も聞き、たくさん学ばせてもらった。
時は過ぎ、4年5ヶ月の長期避難生活にピリオドを打ち、ふるさとで「火山ガス」と共生できる安全対策をとり、去る2月1日の夜、多くの島民と帰ってきた。船から降りてつくづく感じたことは、自分の生まれた三宅島はやっぱりいいなぁということだ。
現在三宅島では、約2,000人の島民が帰島している。次代を担う子供たちは、小学生56人、中学生33人、高校生32人、保育園児17人で新たにスタートしたばかりである。
行政に課せられたことは、産業の活性化、就労、福祉、アクセス(空路)などたくさんある。しかし、朝は小鳥の声で目覚め、避難中一緒に生活出来なかった愛犬の散歩をし、港の見える丘から太平洋を眺めながら、1日のスケジュールを立て、三宅島の将来を描きながら、頑張っている。
都会での4年5ヶ月に亘る避難生活を克服し、ふるさとへの帰島が実現したのも、全国の皆様や関係機関の方々の温かいご支援のおかげと、感謝しながら、毎日ふるさとの復旧におわれている。