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 人生を俳句とともに

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年5月30日

 

高知県町村会長・物部村長  宗石 敎道


「狂へるは世かはたわれか雪無限秩父」
と、混乱の戦後世相を詠み、第七回現代俳句協会賞を受けた、目迫秩父(浜同人)との出会いが、私の俳句への出発点でした。「たかが俳句」と思いつつも、「されど俳句」、私にとって俳句は分身であり、精神生活のカタルシスであり、自分史であります。
水隆きおぼろの泉婚約期
杉の幹ちから満ちゆく泉鳴り
秩父との交りは、秩父逝去までの短い期間ではありましたが、俳句の原点は叙情にあることを学びました。
おぼろ夜の血を享けしより深眠る
手術による輸血を受け、周囲の方々への感謝の気持ちは今も生きております。
桜桃へ雨くる吾子の深睫毛
長女が生まれ、東京下町の俳人たちとの交流がはじまり、彼らの紹介で、「生活即俳道」を提唱する大竹孤悠の「かびれ」に参加することになりました。
梅雨に雷屍の弟眉太き
郷里で家業に従事していた弟の、事故による突然の訃報を受け帰郷しました。悲しみにくれる両親の願いもあり、東京での生活を整理し妻子と共に郷里に帰ることとなりました。
蛍とぶ門口冷えて父祖の家
四国山地の奥深い古里での生活は、さまざまな思いの交錯する毎日でありました。とりわけ、父の希望にそむき、私の我が儘から出郷したことが、弟を犠牲にしたのではないかという思いでありました。
年木伐る父の吐く息桧の匂
杣山屋に佛顔して猟夫泊つ
しかし、ふるさとの風景は俳句づくりに豊富な材料を与えてくれました。
朴の芽に白く風湧き昼ふかし
水と石落花を容れてやわらかし
胡桃割るときのちからも恋のうち
「かびれ」では、幹部同人となり、俳人協会会員にも推され、博文館当用日記にも採録されるようになりました。
鵙を聴く弥勒菩薩のまなこもて
小学校時代の恩師のすすめで、村役場に1カ年勤務しました。そのころ村では、南米パラグアイへ百世帯の集団移住計画がありました。時代は高度成長経済に入り、若年労働力が都会へ移動する時期にあり、計画は成功するとは思えず、村長に進言もいたしましたが、若い情熱で突き進む姿に、それ以上は言えませんでした。結果的には計画は挫折し、責任をとる形で、村長一家5名と移住計画に従事していた職員夫婦の2家族でパラグアイに移住しました。百舌の修羅を鳴く視線に堪えて初志を貫いた村長の姿には、男のロマンと美学がありました。
満月のけものが浴びる深山渕
役場を辞した翌年に村議選があり、薦められるまま出馬しました。周囲の若者達との活動の中で、若手県議の指定席であった自民党高知県連の青年部長に一介の村議の私が指名されることとなりました。虚しさや挫折は味わいましたが、県下の青年部員を地方議会へ送り込む活動に専念したことにより、県・市・町村議会に50名近くの議員を誕生させることができました。
眦になみだの跡やつめたかろ 日暮れきていると知らずに浮氷
母、そして父に続いて、長女の病死は、逆縁として辛いことでした。
桑の実を踏む十字架の立つところ
哀しみの淵にはおりましたが、平成元年に村長に推され、はや16年になりました。私たちの住む、中・山間地域は深刻な高齢化と少子化が進行しております。国の三位一体の改革や、市町村合併問題で揺れており、大変な状況下で明日を模索する毎日が続いております。
軍鶏 勁 し冬来る方へ目をひらつよ