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都市との共存を計りつつ自立できる町づくりを進める

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年4月11日

静岡県小山町長  長田 央

  
私達の町では、明治22年に現在のJR御殿場線が東海道本線として開通し、通過するようになった間もない頃、その鉄道線路に沿って滔々と流れる鮎沢川の水をどう利用するかということから、明治の近代化の先駆者である勝海舟や福沢諭吉先生等の薫陶を受けた東京の財界の有志の方々が水力による紡績工場の建設を構想し、明治31年、富士紡績小山工場が建設され、操業を始めたと言われています。そして、水力発電による紡績工場は大きく発展し、大正11年には従業員数7,900人余と言われるに至り、私達の地域はその影響をうけながら大正元年に当時の菅沼村と六合村が合併し、小山町として町制を施行したのであります。
そういった意味で静岡県東部では沼津市に次いで小山町が市制を施行するだろうと期待されたのであります。事実、私の記憶の中でも旧市街地の通りを多勢の人達が行き交っていた情景がありますし、映画館が3つもあったと言うのが旧市街地に住んでいた人々の自慢話でもありました。また私は商人の子でしたので、父に連れられて食品問屋さんの大きな倉庫等を見せてもらった記憶もあります。
しかし、今日の経済のグローバルな進展の中で、地域の産業構造も大きく様変わりし、私の記憶の中の町の姿は全く無くなってしまったのであります。それでも昭和20年代には、富士紡績小山工場の従業員は2,500人余でありましたし、昭和30年代の町村合併当時の小山町の財政は豊かでしたから、近隣の村が戦後の厳しい財政事情の中で老朽化した小学校の改築や新しい学制による中学校の建設に悩んでいた頃だけにこれらの村との合併は容易に進められたのであります。
しかし、経済発展が進むにつれ、紡績産業は労働力の安い韓国や中国に押されて富士紡績小山工場は紡績部門を休止し、従業員百数十名の加工部門だけになってしまいました。そしてその結果として、かつて賑わっておりました旧市街地は全く灯の消えた状況になってしまったのであります。
勿論、町としても、須走地区による陸上自衛隊富士学校の誘致随想や、昭和30年代の高度成長の時代には、工業団地の造成や企業誘致等を積極的に進めてきたのであります。その結果、町全体としての人口は必ずしも激減とまではいきませんでしたが、21世紀には日本の人口の7割は都市に集中すると言われる中で、近隣の都市部に人口が流れて行く傾向は事実としてある訳です。
特に私の町は県境にあると言う地理的な不便さや、町民の居住地域にも標高250メートルから900メートルと言う標高差があることに加え、東名高速道路のインターチェンジは隣の御殿場市にあり、またJR御殿場線が県内の都市では30分間隔で運行されているのに比べ、私の町では1時間間隔といったように不便な条件がそろっている訳です。それだけに人は住み難いのかも知れませんが、自分が生まれ育った町をどう守るのか、それが私の使命だと思っている所です。
今日、国が進めている三位一体の改革や町村合併の中で、少なくとも私達の町の財政力指数は1,068と不交付団体でありますから、安易な町村合併が住民や地域のためになるかを先ず考える必要があります。これからは時代の変化に対応しながら自立できる町づくりこそが必要だと思うのです。
そこで私は「交流人口の拡大による地域再生」を目指して、フィルムコミッションによる映画ロケの誘致、日本実業団のヒルクライムロードレースの誘致、そして金太郎杯少年サッカー大会の開催等を展開してきました。また、国道246号に道の駅を設置し、地域の経済活動の新しい拠点とすると共に富士山の眺望の良い位置に温泉施設を建てました。これらの施設を拠点としたグリーンツーリズムや歴史探訪等の活動を積極的に行い、都市の人々との交流を進めつつ、都市との共存を計りながら町づくりに取組んでいるところであります。