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 合併に思う

印刷用ページを表示する 掲載日:2005年3月7日

福岡県犀川町長 白石 春夫


犀川(さいがわ)町。面積98平方km、人口約8千人のこの町は、福岡県の東部に位置し、南部は大分県に接している。この町の明治以降の沿革をたどると、明治22年町村制施行に伴い、旧藩時代の当町域の村々は合併して、東犀川村、南犀川村、西犀川村、城井村、伊良原村が成立した。明治38年には東、南、西犀川3村は合併して犀川村となり、その後昭和18年2月には町制を施行し、犀川町となった。当時、私は城井村で3歳の誕生日を迎えようとしているときである。
家の近くを清流祓川が流れ、裏手は田畑や山が延々と続くこの村は、美味しい米の生産地として名を馳せていた。幼少の頃から、この自然に恵まれた川や田畑或いは山々が遊び場であり、集落の子供達と泥だらけになって、それこそ真っ暗になるまで遊んだ。物のない時代であり、小刀などの刃物で上級生の手ほどきをうけ、野山にある竹や木などを加工していろいろな遊び道具を作って遊んだものであった。
時は過ぎ、昭和31年9月城井村は、伊良原村、犀川町と合併し、現在の犀川町となった。この時初めて合併を経験した。当時私が高校生の頃であり、1町2村の住民全てがこの合併を祝い、数日間に渡る祝賀行事に町全体が湧いていた。父や兄姉達も同類に違わず、長い間当時の様子が話し継がれていた。しかし、新しい町の未来に大きな期待を託す反面、故郷の村名や母校の名称が変更されることに一抹の不安と寂しさを禁じえなかったことも事実である。
昭和34年、縁あって合併して間もない犀川町役場に奉職した。当時は高度経済成長の真っ只中で、役場職員はマイナーな職業に見られ、多くの人は民間企業へと就職していた時代だった。税務課を手始めに幾つかの課を経験していった。そんな中、昭和49年に新庁舎を建設することになった。旧犀川村時代から使用していた庁舎は老朽化し、手狭になったためであった。しかし、折しもオイルショックで建築資材は急騰し、計画予算の2倍の工事費がかかり、昭和51年には財政再建準用団体の指定を受けた。7年後財政再建は完了したものの、住民のみならず職員にとっても本当に苦しい7年間であった。この間、町主催の行事や福祉面に至るまで中止や緊縮は続くことになった。
その後管理職となった私に一大転機がおとずれる。平成6年、当時の助役が勇退されることとなり、町長からの依頼を受け、助役に就任することとなった。まさしく晴天の霹靂である。さらに平成9年には、私にこの町の未来を託し、進前町長は勇退された。
一国一城の主となった私には「犀川町をこのようにしたい。」という夢を追い、時には住民にも喜ばれない事業を決断しなければならないときもあった。限られた予算の中では、一度に整備はできない。毎年少しずつではあるが整備して、その夢は確実に実りつつあった。
そんな中、降って沸いたように合併問題がでてきた。
農林業が主産業であるこの町で、昭和31年当時1万3千人を数えた人口は半分近くにまで減った。都市部へ流出する若者で過疎化、高齢化が進み、駅前の商店街にも昔の活気は影を潜めている。出来るものならば今のまま踏ん張りたいという気持ちはある。住民の多くもそう望んでいるのではないだろうか。しかし、税収などの自主財源が少なく地方交付税に依存する我が町にとって「三位一体の改革」による地方交付税の削減は死活問題である。30年前の再建団体時が脳裏をよぎる。サービスをしたくても出来なかったあの当時を。また今は量だけではなくサービスの質も求められている。加速度的に発達している社会に対応し、かつ、より複雑化する住民の二ーズを受け入れていくためには、財政的な基盤は必要不可欠である。サービスの質・量共に近隣と比較して著しく下がってしまうことだけはあってはならない。合併は、将来のためにも必要不可欠なことであるとわたしは信じている。
今、勝山町、豊津町との3町で合併の話を進めている。もちろん財政ありきではない。住民の皆さんが喜んで、明日への希望がもてるような合併にすることが私たち首長をはじめとする関係者の役割ではないだろうか。
昭和の合併から50年という節目の年。犀川町は、新たな未来に向かって羽ばたこうとしている。