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 子守唄の里 五木村

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年12月20日更新

熊本県五木村長  西村 久徳

  
全国の子守唄を代表する「五木の子守唄」発祥の地、五木村は子守唄とともに戦後、一躍有名となりました。
貧しい山村では年頃の子供さんを他人の家に子守奉公に出すことがありました。
親や姉妹とも別れ、見ず知らずの家で寂しい、辛い思いをしながら、幼い子娘が子供をあやしながら歌った唄が「おどまいやいや、泣く子の守りは、泣くと言われて憎まれる」「つらいもんばい、他人の飯は、煮えちゃおれども、のどこさぐ」。あやしても泣き止まない子供、それを子守が下手と憎まれる。あるいは御飯は煮えていても喉を通りにくいと、他人の家での境遇を歌ったもの、子守娘はふるさとの山を見、悲しさ辛さのあまり「おどんが、お父ちゃんは、あの山おらす、おらすと思えば、行こごたる」と、幼い子守娘が辛さのあまり口ずさんだ唄が、この五木の子守唄であります。
歌詞は90ほどありますが、この唄は、いつ頃から歌われ、また、だれが作ったかもわからない、口から耳へと伝承されているものであります。
五木村にとりまして、この子守唄は宝であり財産であり、誇りでもあります。
そこで、村の中心地には子守唄公園を整備し、さらにふるさと創生事業で実施した子守像の彫刻コンクール優秀作12基を村内各地に建立しており、村外から訪れる皆さんから大変親しまれております。
五木村は九州のほぼ中央に位置し、九州脊梁の南端で、千メートル級の山岳が連なっており、山々を源とする深い渓谷が集まって川辺川となり、日本三大急流の一つである球磨川と人吉市で合流し、八代海へと注いています。
面積は252.94ヘクタール内97パーセントが山林で、農耕地は1パーセント程度で、昔はそのほとんどが焼畑でした。
戦前、戦後は木炭の主産地として、その後は木材、紙パルプの生産が盛んとなり、それに引き続き昭和50年代前半までは造林事業で景気もよく、活気がありました。
人口も一番多い時で6,100人でしたが、昭和38年から39年、40と3ヶ年連続して未曾有の大水害が発生し、村内全域に甚大な被害をもたらし、死者行方不明者11名、家屋の流失等半壊以上が247戸、さらに交通網が寸断され、農林地の被災も多く、全村が壊滅的な打撃を受け、五木村はもはや立ち上がることは出来ないのではないかと言われました。
しかしながら、国、県、近隣市町村の暖かいご支援と、村民の力強い復興への情熱により全力で復旧に取り組むことが出来ました。
一方では3年連続の水害を目の前にして、千人近くの村民が村外へ移転することになりました。
水害は五木村のみならず、球磨川流域全体に及び、当時の被害額は1千億円以上となり、水害から流域の人々の生命財産を守るため川辺川に洪水調節ダムを早急に造ってほしいとの要望が、流域住民、県、関係市町村一丸となって出されました。
昭和41年、国・県の調査団が五木村に入り、その半年後には川辺川ダム建設計画が発表されました。
その規模は、高さ107メートル、貯水量1億3千3百トンで五木村の中心地が水没し、多くの公共施設と村民の半数が移転をよぎなくされる、五木村の存亡に係る重大なものでありました。
村では議会、全村民あげてダム建設絶対反対を唱え、20年間以上闘い続け、一部の水没団体では裁判闘争まで起しました。
しかしながら、下流域住民、市町村長、熊本県、関係県議会議員の強い要請と、福岡高等裁判所での和解勧告等により、苦渋の選択として、五木村は全村民合意の下、ダム建設を容認し、ダムによる新しい村づくりを目指して立村計画を樹立し、今、その実現に向かい、村民一丸となって取り組んでいます。
ところが、予想だにしなかった漁業補償とダム建設の目的の一である、農業利水事業の問題で、ダム建設事業の先行きに不透明感が漂っています。
いまさらながら、五木村民の苦悩と犠牲はなんであったのか、理解に苦しんでおります。