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 富士川舟運の町・鰍沢

印刷用ページを表示する 掲載日:2004年9月13日

富士川舟運の町・鰍沢

山梨県町村会長
 鰍沢町長
 石川 洋司


鰍沢(かじがさわ)という字を初めて見て正しく読める人は少ない。なかには魚偏に秋と書いて「さんまさわ」などという人もいる。それもそのはず、一時は全国難読町サミットに参画していた時期もあったくらいですから。

さて、鰍沢といえば富士川舟運である。この地は、南北に通ずる河内路(駿州〈静岡〉往還)と西郡路(信州〈長野〉往還)が交わる地点にあり、江戸時代、甲斐の国の通行の重要な拠点でした。現在の商店街の南はずれには船着場の鰍沢河岸があり、陸路と水路の接点となっていました。この水路が富士川舟運のことであります。当時鰍沢は、その舟運の一番の拠点として、人、物、そして活気にあふれ、甲州一円では甲府に次ぐ商いの町でした。

昔、信州(長野県)の高遠町では、塩のことを「鰍沢」と呼んでいたそうです。それは鰍沢が江戸時代から明治に富士川舟運の河岸として栄え、遠くは赤穂浪士で有名な兵庫県赤穂市や駿河で作られた塩が鰍沢で陸揚げされ、信州の高遠まで運ばれていったからだといわれています。今でも富士川の河口である静岡県富士川町と鰍沢町そして高遠町の3町は、毎年1回「塩の道サミット」を開き、交流を深めています。

思えば平成6年8月のことでした。富士川舟運の歴史を再現しようと町の青年たちによって、赤穂の塩を積んだ高瀬舟の曳き上げが実現されました。青年たち自ら赤穂市にお願いし、実際に昔の塩作りを体験しました。そして、その塩を俵詰にして背中にかつぎ、富士川町から徒歩で38㎞運び、残りの17㎞は実物大に復元した高瀬舟に塩を積み、富士川に浮かべて音とまったく同じ方法で曳き上げを行いました。白い帆に川風をはらんだ高瀬舟が富士川を遡ってくる姿は、見る人に感動を与えました。当時、住民意識はとかく郷土の歴史を無視して刹那的な新しい現象にとらわれがちでしたが、青年たちの「高瀬舟の曳き上げ」は多くの住民に郷土の歴史への関心を高め、郷土への愛着を深める機会を与えた意義深いものでした。

甲府盆地の南端に位置し、富士川に沿って駿河湾岸の温かい空気が運ばれてくる温暖な地域のここ鰍沢は、春には日本さくらの会から「さくら名所百選」に認定された大法師公園の2,000本の桜が咲き誇り、秋には風光明媚な大柳川渓谷の紅葉と、自然の彩色はドラマチックに変化して多くの人々の訪れるところであります。

そんな鰍沢町の首長として、私は平成4年に初当選以来、現在4期目の町政を担当しております。学生時代に柔道をしていたことから、いささか気力、体力には自信がありますが、5年ほど前から健康づくりのために毎朝1時間ほど町内を散歩しています。毎日コースを変えながら歩いていて気がつくのは、「この道は狭いなあ」とか、「不法投棄物があった」とか、「公共工事現場の状況がどうだった」とか、いろいろなことが目に入ってきます。また、早朝行き交う人たちがすがすがしく気軽に声をかけてくれます。普段ネクタイに背広姿の私と違って、ジャージに運動靴姿の私に親しみをもってくれた
と思うと少々喜ばしい気持ちになります。これからも「健康づくり」、「町内観察」、「ふれあい」のために、歩く町長として散歩を続けていきたいと思います。

今、地方自治体は町村合併の問題や、交付金の減少による財政難等で根底から揺れております。こんな時こそ住民と行政が一体となり、創意工夫しながら、この窮境を乗り越えなくてはなりません。長い歴史の中で幾多の苦難を乗り越え、先人が築きあげてきたわが町「鰍沢」、この町の将来を今こそ真剣に考える時だと認識しております。そして次代を担う子供たちのために、よりよい環境を受け継いでいかなければならないと痛感しております。そのためにも「豊かな自然を愛し、やさしさとふれあいのある、文化の香り高い町鰍沢」、「人と自然と伝統文化が調和するナイス・タウン鰍沢をめざして」をキャッチフレーズに、そこに住む人々が幸せを実感し、希望のもてる町づくりをめざしていきたいと考えております。