東京都奥多摩町長 大舘 誉
タカシ達の遊び場だった稲荷神社前の広場に突然大勢の人達が集まり、大きな掛け声に合わせ何やら作業が始まった。もう皆んなと広場では遊べなくなることの不満と、一体何が出来るのかとの興味が小学校入学前のタカシの脳裏を交差し、頭の中は混乱のためもうどうしようも無くなっていた。
太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年のことである。あとで大人達に聞くと鉄道の停車場の工事が始まったのだと言う。事業は、突貫工事によって進められ、駅舎は翌年の昭和18年に完成し、また、鉄道の運転供用開始は19年の7月のことであった。現在「関東の駅百選認定駅」に指定されているJR青梅線奥多摩駅舎は、建てられて今年で丁度60年と人間社会で言えば還暦を迎えたところである。
この鉄道の運転が開始された昭和19年は、私は既に小学生となっていたが、運転当初は珍しさと嬉しさで毎日のように御嶽駅まで行ったり来たりと乗り遊んでいた。
太平洋戦争も末期を迎える中で、駅舎はやがて多くの若者を兵士として送り出す場となり、空襲から逃れる大勢の疎開者を迎える場となっていた。そして、終戦を迎えた昭和20年には戦火に遭い、焼けて赤錆びた電車が幾重にも係留されていたことを忘れることができない。
現在のJR青梅線御嶽駅から氷川駅 (現奥多摩駅)間の約10キロの建設にあっては、町内日原地区に埋蔵する石灰石を採掘し運搬する目的ではあったが、一般旅客及び貨物の運輸を行う地方鉄道として、浅野セメント㈱、日本鋼管㈱、鶴見製鉄造船㈱の共同出資による「奥多摩電気鉄道株式会社」により敷設された。この約10キロの沿線は急峻な山岳地帯で、随道14か所、橋梁16か所と5つの停車場を設けるという難工事であったが、会社設立から供用開始まで僅か7年という驚異的なスピードで建設されている。国民総動員令下にあったとはいえ、現在のような重機も無く資材も乏しかった状況下の事業であり、現在の常識からすると神業としか思えない。
奥多摩町区域内となっているこの沿線には、地域住民の強い要望により集落ごとに5つの駅が設けられた。このうち、鳩の巣駅と氷川駅は地域が観光拠点となっていることから、観光地に相応しい駅舎として整備されている。石灰石の搬出を目的として作られた会社がこのような駅舎を建てたことは、当時の地域住民の強い要望があったとは言え、難しい要望に応えた鉄道会杜の誠意と努力を高く評価したい。
関東の駅百選認定駅となっている奥多摩駅は、地元産材の大きな研き丸太を幾本も柱に使った丸窓のある2階建となっており賛沢な建物である。現在では、屋根が瓦葺きとなっているが建設当初は私の知る限り檜皮葺きであった。この鉄道は、供用開始間も無く近隣の青梅線、五日市線、南武線の3線とともに国鉄に買収され、現在JRに引き継がれている。
奥多摩町は、昭和の大合併の折り旧小河内村、氷川町、古里村の3か町村が合併して誕生した町である。新町発足にあたり町の振興方針は、この地域が古くから東京の奥庭と称されていること、また、町全域が秩父多摩甲斐国立公園に含まれていることから「観光立町」を宣言し観光を地域振興の柱としたところである。そして、山小屋、ます釣場、キャンプ場、国民宿舎等の整備を図りながら地域の活性化に努力してきたところであるが、鳩の巣駅や氷川駅を建てた当時と比べ、経済環境にも恵まれた現在社会の中で、果たして努力が十分であったかと反省するところである。
奥多摩町は、現在平成7年度からスタートさせた第3次長期総合計画「おくたま豊かさ計画」を推進中で、残り2年をもってこの計画は終了する。この計画では、観光振興を推進するうえで、奥多摩町での第一印象が重要であるとして、先ず駅舎トイレを綺麗にすることとし、JRの協力を得ながら整備を図り今年度をもって全てが完了する。現在JRと民営化されてはいるものの、旧国鉄時代の体質の名残もある鉄道会社であり、手続き等若干複雑なところもあったが順調に整備できたと思っている。
奥多摩駅が還暦を迎えたことを契機に、建設当時の先輩各位の意気込みを念頭に置き、奥多摩ルネッサンスとして観光立町奥多摩を旗印に頑張りたいと思っている。