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 千曲川源流の村

印刷用ページを表示する 掲載日:2003年2月17日

長野県川上村長 藤原忠彦

私が村長に当選したのは、昭和63年2月の事でした。それまで村の職員であった私には、村長とは「全能を以て村民の生命財産を守り、その生活環境まで全責任を負う」ための選ばれた人という認識でありました。当時役場企画課長であった私を、その職に担ぎ出そうとする人達の熱意は本当に有難くも、正直戸惑いました。私にその重責が果たせるか、また住民がその職責を付託してくれるのかと。

しかしながら幸せなことに、私を押し上げようとする人達の輪が大きく広がり日に日に応援の声が強まってきまして、村民の過半数以上の署名活動に支えられ、それまであった戸惑いと躊躇が希望と決意に変わっていきました。結果33代目の村長に無投票で当選することができました。

私が村役場に奉職したのは昭和38年1月、24才の時でありました。社会は高度成長初期の最中であり、東海道新幹線や近代的な建築物、高速道路等、東京オリンピックに向けて国全体が活気に満ち、至る所で槌音が聞こえておりました。私達の村にテレビが普及してきたのも、ちょうどその時であったように思います。農業を基幹産業とした村もようやく大型トラクターが導入され、農地開発等いよいよ成長の黎明期を迎えようとしていました。それまでの川上村は、島崎藤村の「千曲川のスケッチ」で紹介されているように、平均標高1,100mという高冷地のため、稲作や果樹等の生産は全くだめで、小規模の養蚕や諏訪地方等への出稼ぎという、いわゆる寒村でありました。この地理的条件下で先輩達は色々な方策を探り、出稼ぎ生活からの脱却という強いエネルギーをもってしてもやはり限界はありました。

川上村に産業革命とも言うべき一大転機が訪れたのは、朝鮮戦争が勃発した頃と期を一にしています。それは前線基地の特需レタスの栽培要請だったのです。1つの産業が興るのは、強い意志と行動力だけではなく、その時の時流とそれを的確に感知する感覚を持った人材、そしてそれを活用する資本と資源を有していなければならないと思います。まさに川上村は、その3拍子揃った条件の中で、辿るべき道を探しあてたと言えます。また、戦後の国民の食生活もアメリカナイズされた為か、肉や野菜の需要が急激に増加したのも幸いしたものと思います。かくして30年代は全村を挙げて、野菜生産に向けて始動したものでした。

そんな訳で、私が役場に入った頃は農業基盤整備に追われ、農地は年々拡大し、その生産量も飛躍的に増加していきました。村民は猛烈に働き、そして私も国、県と走り廻る忙しさの中にも不思議とつらさはなく、むしろ役場に行くのが楽しかったように思います。40年代、50年代と好景気に沸く村の中で、村のインフラも着々と整備されていったのはいうまでもありません。「とにかく忙しく、とにかく楽しかった」と思っています。

さて、50年代後半になりますと農業基盤整備も終わり、増反、増産の動きも鈍くなり社会背景も相まって財貨万能主義的な風潮も表れてきました。経済の急激な発展によってもたらされた物の豊かさよりも、人心の豊かさが失われてきているように思われてきました。それまで、地域あるいは隣近所で助け合ってコミュニティーを形成していたものが、少しずつ溶けてきたように感じ、これではいけないと強く思うようになりました。企画課長の時、村の総合計画を策定するにあたり、その思いをぶつけ、「何とかして方向を転換させるべき」という思いが村民に通じ、多くの賛同者を得たことは前述の通りです。

私は村長に就任して以来「真の豊かさは心の豊かさ」と「村づくりは人づくり」をモットーにしてまいりました。村づくりは人づくりであり、どんな困難なときでも明日の希望を見出せる人になって欲しいし、その為の人づくりをしなければならないと考えています。いま、川上村は前述の通り幾多の試練と時代を経て、全国有数の野菜産地として成長しました。それにより、かつての寒村から脱却することはできましたが、衣食住が充足されれば満足という時代ではありません。その上に「情」つまり豊富な情報の確保と3つの「コウ」も併せ持たなければならないと思います。3つの「コウ」とは「地域交通対策」「高齢化対策」「国際交流」を言っておりますが、これも村づくりには必ず必要なものであると考えています。それが村民の総満足度を高め、物質による幸福感だけを追い求めるものではないというところへ辿り着くものと思っているからです。そして私が、村長就任後直ちに着手したのは「情」と「3つのコウ」でした。今でこそ規制緩和が進んでおりますが、当時の規制は見事なまでに網羅されており、県や国のガードが硬かった訳です。これを突破するには大変なエネルギーを費やした訳ですが、このガードの本質は「前例がない」「考えられない」というものであり、中央官庁は全国を画一的な基準で推し計り、その地域の特性や、そこに住む人々の求めているものを理解する観念が乏しかったものだと思います。しかし乍ら、幸いにして制度改正と理解を最終的にはしていただき、廃止代替バス(交通)、CATV(情)を全国に先がけて完成させたところです。

私はこの経験を踏まえて、職員には基本的には地方自治というものは何でも出来るのだ、出来ないのは犯罪だけだ、だから知恵を出せと言っております。また、よそにない事業をするには様々な知恵を出さなければならない。どこかの事例を待っていると既成事実に嵌ってしまいやすく、創造の分野がなくなってくる。早く始めることは創造力を倍にするから職員も頑張るし、満足感や達成感も全然違う。それにも増して村民の反応も全然違ってくると思います。

そしてまた、時代が変わり世代の交代が進む中、唯一変わらないのは村に残されている豊富な自然と、バイタリティー溢れる村民性と思っているわけですが、これは後世に健全なまま確実に伝えるべきものと考えています。豊富な自然は屋根のない学習室であり、母なるものです。子供達が遊び、大人達が憩う場所であり、都会の喧嘆に疲れた人達が回帰するところでもあります。

千曲川の端を発する甲武信岳は山梨、埼玉、長野の3県に跨り日本海と太平洋の分水嶺でもありますが、原生林が茂り、毎年多くの老若男女が訪れております。また、将来的にも訪れる人々は増加の一途を辿ると予想しております。地球上の動物の中で唯一自然を文化的に使い、共生できるのは人間だけです。自然を題材にして、理性と感性を磨けるのも人間のみであると思っています。このような貴重な財産も、不適切な開発から守らなければなりません。そしてまた、地域には豊富な自然とそこに醸し出された人材が生活を営んでいるわけですが、村づくりの必要条件として私なりに呼んでいる「三風の原則」つまり風土・風習・風味を取り入れ、地域の個性を伸ばすことだと思います。これらは目立ちはしませんが、その地域政策の根底をなすものと捕らえています。

そして、バイタリティー溢れる村民性は、いずれも戦中戦後の厳しい生活環境の中から、逆境にもめげず立ち上がったエネルギーに培われたものであり、その気質は脈々と受け継がれております。合計特殊出生率も平成4年には3.45を記録し、後継者も次々と育っております。あるいは自然、あるいは人間は手をかけ、時間をかけてゆっくりと醸成されるものです。その環境を整えるには困難な問題が発生しようとも克服して行かなければならないと思っています。

問われれば「村づくりは人づくり」私はもう一度そう答えます。

※「お方ぶち」1月14日に新婚さんの家を子ども達が訪れ「お方」(嫁に対する最高の敬称)さんを祝う原地区の伝統行事です。