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 緒方三郎惟栄のこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年11月4日

緒方三郎惟栄(これよし)のこと

大分県緒方町長 山中博

九月も中旬を過ぎると、町内随所のお宮で秋祭りの鉦(かね)、太鼓の音が聞こえる。勿論、今年の豊饒を願う農民の一大行事であり、集落総出のハレの日である。8月のうら盆では、水田の周囲に松明(たいまつ)を立て、これに火をつけ燃やす「こだい(小松明)」が行われる。緒方平野と呼ばれる300ヘクタールの広大な平野の1万5千本をこえる松明は、静かな闇を幽玄の世界に変える。旧暦10月14、5日になると、緒方三社と呼ばれる八幡社の神輿が褌姿の氏子に担がれ、夜の緒方川を勇壮に渡る。言い伝えでは創祀(1183年)以来の祭りとのこと。

緒方町には、こんな昔ながらの風景が多い。町の歴史を見ると、雑穀類を栽培・収穫したとされる村落共同体の遺跡が町内の「大石遺跡」で発掘されたのが昭和30年代で、当時、縄文晩期のこの遺跡から農耕の起源があるとした「縄文晩期農耕論」が従来の学説を覆すもので、大いに議論を呼んだこともある。また、農耕、特に稲作が文献に表れるのが、宇佐神宮の荘園として奈良時代から緒方荘の記述が見られる。言わば太古の昔から農耕を生活基盤として、この地域が成り立ってきた訳である。

さて、ここで緒方三郎惟栄(これよし)が、歴史の表舞台に登場する訳だが、「怖(おそろ)し子者の末」で「弓矢打物取て、九州二島にならぶ者も有まじきぞ」(『平家物語』)また、「大蛇ノ末ナリケレハ、身健ニ心モ剛ニシテ、九国ヲモ随へ、西国ノ大将軍セント、思フ程ノオホケキ者ナリケルニ」(『源平盛衰記』)と、異能な表現をされている。時は1180年前後の鎌倉幕府が開かれる源平の争乱期である。

源頼朝が富士川の戦いで平家に大勝し政権が混乱すると、その屋台骨を支えていた清盛が死去。時を同じくして、瀬戸内海から西国の平家の有力な勢力圏内である豊後国で、平重盛の家人であった緒方惟栄が挙兵、 目代(もくだい)(国司の代官)を追い出してしまう。元々、豊後武士団の頭領として、豊かな荘園の名主を務め一大騎馬軍団を率いていた地方豪族が、従前の宇佐神宮の支配下では満足し得なかった事情にもよろうが、相手は平氏であり一地方の反乱以上の影響を中央に与えたと思われる。当時右大臣であった九条兼実の日記「玉葉」にも、京でその対応を協議したことが記述されている。

その後、京を追われた平氏一族は九州、太宰府に落ちる。後白河上皇は平氏追討の院宣を源氏に下すが、これが緒方惟栄に命令され、九国二島の武士を率いて惟栄は太宰府を攻めるのである。これにより、屋島、壇ノ浦と平氏は滅亡していくが、この最中に惟栄は宇佐神宮を襲い焼き払う。また、源氏方も政権内の権力争いが始まることになる。頼朝と義経の対立は世に知られているが、惟栄もこれに巻き込まれ、後白河院の宣旨により義経が九州に下るのを助けることになるのだが、時は味方せず、義経の乗る船が大風により住吉の浦に四散、沈没し、惟栄も捕らえられるのである。

この後、義経は東国に逃れるが、惟栄は上野国、沼田庄に配流になり、歴史上から抹消されてしまう。同時に頼朝は、惟栄の影響を除くため、特に豊後の国司を望み、唯一西日本で一国だけの関東御分国と言われる豊後国になったのである。これが故に、緒方三郎惟栄の支配した痕跡は、一切の記録にも留められず、緒方という地名以外は何も残っていない。

惟栄が歴史の記録に現れるのは1181年から6年間だけであり、その実像はわずかな記録から推測する以外にない。彼が偉人であったか、英雄であったか、宇佐神宮を焼き討ちした罪人であったのか、今は知る由もないが、源平の争乱に大きな影響を与えたことは確かで、建礼門院に「惟義(栄)とかやに九国の内をも追い出され…」(『平家物語』)と怨まれた程の人物であったことはうかがえる。

私は緒方町に生まれた者として、歴史の流れに翻弄された彼の実像を、何とかつかみたいと思っているのだが。