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 過疎地のスポーツ

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年9月16日

高知県馬路村長 上治堂司

高知県東部の山の中にある人口1,003人足らずの馬路村は、「スポーツで豊かな心と健康を」をキャッチフレーズに昔からスポーツの盛んな土地です。

特に野球は中学校・一般とも村民グランドを利用し、連日山あいには大きく元気な声が響いていました。しかし、山村過疎の影響で生徒数も減少。昭和62年には、ついに馬路中学校の野球部は休部となりました。

県下の中学校が集まる夏の野球選手権大会は、村外に転出している方々とともに応援し交流できる場でもあり、休部は何より残念でした。

そんな寂しい年が続いたある日、PTA主催の親子レクリエーションの席で数人の保護者から、「中学校は生徒が少なく野球はできないが小学生を1年生から6年生まで集めたらできやせんろうか」という話があったのです。

話は大いに盛り上がり、私が土佐中・高で六年間野球部に所属していたこともあり、監督を引き受けることになりました。当時小学校の男子生徒数は全校で26名、そのうち22人の入部があり昭和63年9月15日、地域の期待のもと「馬路スポーツ少年団」が結成されたのです。

昔の子供達は放課後、“三角ベース”や“ぶや(ゴム)ボール”で遊びながら野球を覚えていましたが、当時の子どもは野球とはどんなスポーツかということから教えなくてはいけませんでした。キャッチボールを始めると、相手が捕れるようなボールを投げることができず、また、上手に投げても捕ることができませんでした。

このままでは野球はおもしろくなく、嫌になるのではないかと心配でした。そこで機運を高めるために、ユニホーム、スパイクを揃えました。効果は抜群。子ども達はとてもうれしそうな顔をしました。きっとプロ野球選手になった気分だったのでしょう。

チームができて6カ月、平成元年4月、初めての公式戦を迎えました。私も子ども達も今まで練習してきたことを、グランドで全力で出し切りたいと意気揚々、村を出発しました。試合前のノックでは、緊張感でこわばった顔をしている子ども達を出来るだけ平常心でプレーができるよう、私もメガホンを肩に掛け、大きな声で励ましてやりました。

子どもの数より多い応援団の見守る中プレーボール。結果は20点以上の差がつき、3回コールドゲームで負けました。楽しさや喜びを味わうこともなく、ただ苦しいだけで試合は終わりました。保護者や地域の人達は「最初やもん。負けて当然よ。」と言ってねぎらってくれましたが、帰りのバスの中ではさすがに元気がありませんでした。

「涙の一勝」を励みに

少年団に今も語り継がれているドラマが数々ありますが、その中に「涙の1勝」というのがあります。それは、1点のリードで迎えた最終回の守り。ワンアウトごとに心臓の音が高くなっていきます。最後のバッターを仕留めると、まるで優勝したかのように、いや、それ以上に子ども達も保護者も、応援者も、周りを気にせず涙を流し抱き合って喜びました。いい結果が出せなくても目標を失わず努力し、頑張ることの大切さを身にしみて感じたことでした。

「過疎の村にホームラン」

チームが結成されて5年目、子ども達は、「過疎の村にホームラン」を放ってくれたのでした。県大会で優勝し高知県代表として全国大会に出場することになったのです。村民グランドには「祝・全国大会出場・馬路スポーツ少年団」の横断幕が掛けられ、村民挙げての寄付、そして開催地水戸へは教育長をはじめ約50人の応援団が出かけました。開会式で他チームと比べると出場中1番小柄で人数も少なかったけれど、真っ白なユニホームが輝き、大きく手を振っての入場行進はとても立派でした。

目標に向かって努力を続けるということの大切さを思いながら、現在、村長として地域にある資源を有効に利活用しながら、明るく元気な村づくりに取り組んでいるところです。