島根県町村会長 旭町長 岩谷義夫
今年は、山陰地方特有の梅雨明け集中豪雨もなく安堵のうちに夏を迎えたが、空梅雨だけにこのところの炎暑は殊のほか暑い。庁舎の窓から中国山地の山並みを眺め続けること17年間、緑深い山だけに炎天の強い陽射しは黒1色のシルエットとして窓に映し出す。
思い浮かべると私の初登庁の日は、昭和60年7月7日あたかも町長就任は天の怒りをかったかのような梅雨前線による豪雨の当日、災害対応に追われる中で、わずかな職員に出迎えられての初登庁であった。
就任後は、58年、60年そして63年と続いた豪雨災害の復旧に明け暮れるという、まさに荒波への船出であった。
しかし、まちづくりへの夢は消えることはなかった。
当時の人口は3,800人、面積128平方キロメートル、その86パーセントを山林と原野で占める中国山地の山間の町、古くは山陰と山陽を結ぶ参勤交代道の宿場町として栄えた。
この町の中心を東西に走る中国横断自動車道広島浜田線のルートが決定し、平成4年3月全線開通の予定で、すでに工事は進んでいた。全国初の横断道開通となるこの路線は、過去において2度にわたり鉄道建設計画が挫折した経緯を持つ沿線住民にとって、日本海のまちと政令指定都市広島市を結ぶ経済交流はもとより、文化の交流、観光の促進に寄与するものとして、地域の振興に大きな期待を寄せていた。
私のまちづくりへの夢は、こうした住民の思いが後押ししてくれた。
「私の町に是非バス停を作ってください」町長に就任後、建設省にお願いした。「通過するだけの町」になってしまうことは避けなければならない、そうした思いからである。
「過疎の町にバス停を作って利用があるのかね」と苦言を呈された言葉に、お願いしますとしか返す言葉がなかった。町に光を求めたい一心での願いである。そして2年経った昭和63年3月定例議会の最中であった、「心配されていたバス停の設置が決まりました」県土木部道路課からの連絡に議会中であることも忘れ、感激の余りに応答の言葉に詰まり、ただ深く頭を下げる自分の姿が思い出される。
平成元年、横断道の全線開通をにらんで「横断道を生かしたまちづくり」をテーマとした、第4次旭町長期総合振興計画を策定した。これは、前計画期間を2年繰り上げてのことである。当初計画に織り込まれている旭インターと追加設置の決定した高速バス停の周辺開発を主要施策として、町民と旭町まちづくり委員会広島部会からの提言を受け検討して作り上げた。
以来、都市との交流を的に3つくり(ひとづくり、ふれあいづくり、ものづくり)を基本とした、旭温泉の拡充整備、スキー場をメインとしたリゾート開発、農地開発による赤梨の生産や高速バス停周辺を定住と福祉ゾーンとする整備など、創造と活力に満ちたまちづくりを進めた。
そして10年の計画期間を迎えた。町民とともに喜べるまちづくりではなかったか。そう自分に問いかけ、今日大きく伸びた交流人口と豊かな自然を生かした、「多自然交流の郷」を新たなテーマに「ふれあいと感動のこだまするまちづくり」に取り組んでいる。
真に俺が町意識による手づくりのまちである。そして、それがまた大きな試練の期を迎えている。国の進める改革の中に市町村合併の問題が急がれると言うことである。
私の町も、将来のまちづくりへの選択肢を迫られ、1市3町1村による枠組みの中で任意協議会を設置した。
私は、この合併議論に特例財源を掲げた早急な合併を求めるのはいかがなものかと思う。自立を呼びかけてきた矢先に合併という他力本願(合併)を期した問いかけで町民に答えを求めても早急な答えは返ってくる筈がない。
そこで私は、県に1つの提案をしたところ、地方自治法に抵触すると一蹴されたが、それは合併してもこれまで作り上げてきた地域への想いが反映される仕組みづくりができないものかということである。
私流に言えば、培ってきた自治意識を持続するには合併した新しい市に旧町村単位に区制を敷き、その地域の住民が選んだ区長を置くというものである。
このことで、行政の目が地域の隅々まで届き、自分たちが選んだ身近な代表を通して、住民の声を行政に反映させることができると考えるものである。
区長を選挙で選ぶことに固執するものではないが、これまでに町民とともに汗を流し、荒波を乗り越えてきた地域への思いと力が失われてはならないと考えてのことである。
山並みの裾に続く棚田に稲穂が垂れ始めた、やがて赤とんぼが舞い、稲刈りが始まる。今年もこの様子では豊作が望めそうだが、それを手放しで喜べない向かい風が感じられてくる。