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 「ヤマセ」という風がもたらしたもの

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年7月8日

岩手県野田村長 中川正勝

岩手県北部の太平洋に面した我が野田村は、人口5,500人、面積80平方キロメートルの中山間地域の小さな村である。明治22年に2村が合併して現在に至っている。

農林水産業が基幹産業であるが、海外からの輸入物の増大や産地間競争の激化に加えて、現在の経済状況により厳しい局面を迎えている。古くから、我が村に限らずこの地方は、北国というハンデの他にこの地方特有の厳しい風土、ヤマセという風に悩まされて来た。

ヤマセとは、春から夏にかけて冷たく湿った北東風のことであり、濃い霧や小雨を伴い、時として2ヶ月から3ヶ月も断続的に発生することがあるのである。ヤマセの霧は、太陽光を遮ることから稲が不稔となり、飯米はおろか種籾すら確保できないのである。農業に悪影響を与えることからこの風のことは別名「凶作風」あるいは「餓死風」と呼ばれる。ヤマセ風土に暮らす人々の生活、文化は、常に冷害との闘いでもあったが、これは決して遠い過去の話ではない。昨年も冷夏により水稲の作況指数が100を割ったが、近年では私が村長に就任した年の平成5年は大冷害であった。全国的にも冷害であったが、岩手の我が村を含む県北地域は取り分けその状況は酷く、収穫ゼロという状態であった。飯米用の細長いタイ米が店頭に並べられたが、翌年の作付用種籾の確保対策が県ならびに市町村の緊急な課題であった。翌年の田植え時期まで半年しかないのであるから当然である。県においては以前より、寒さに強い品種の改良研究を進めており、ほぼこの時に新品種が出来ていたのであるが、希望農家に配るだけの量がないことが問題であったらしい。

この問題を解決したのが県職員の一言であったと聞く。それは、日本で2期作を行っている最も南の石垣島の農家に作付けをお願いするというものである。勿論、このことにより翌年の作付けは無事に済んだのであるが、岩手と沖縄を結んだ米ということから「かけはし」と命名され、以来、うるち米の王者として村内外の水田を支配している。寒さに強い分病気に弱いという点が欠点であり、薬剤散布などの管理に充分の注意を払わなければならない品種である。

現在の世においては、大冷害になったからといって餓死者がでるなどということは無い訳であるが、道路や物流体系が発達していない当時の歴史には、そのことが記されているのである。このような歴史の中で、冷害にも比較的に強いヒエやアワなどの雑穀が主食であり、その文化が今でもこの地方に残っている。また、農耕馬としても貴重であった馬は、現金収入の道としても同様であり、その生産が盛んに行われたのである。

この地方の馬は「南部駒」と呼ばれ、戦時中の軍馬として名高かったようである。いつの世でも、人間の生きるという執念に凄いものがあるが、ヤマセで喰えないなら他のもので生命を繋ぐというのである。それは、眼下に広がる太平洋の海水を煮詰めての製塩であった。日本列島四面海であるのに何故?であるが、断崖絶壁が連なるリアス式の海岸線の中でも野田海岸が3.7キロメートル余の砂浜があり海水が汲み易い、鉄山が多く鉄釜が安く入手しやすい、塩木(しおき)山が海近くにあったこともあり、八基もの釜屋が建ち並んだという。

一旦、釜に火を入れたら少量の海水を注ぎ足しながら、一昼夜寝ずの番の仕事である。「直煮法」と呼ばれる方法であるが、こうして焚かれた塩は、平道は馬、山坂道には牛と使い分けながら北上山地を越えて盛岡近在や花巻、沢内遠くは秋田の鹿角方面まで駄送され、玄米や他の穀類と等交換されたのである。駄送は、荷崩れさせない牛のほうが多く、内陸部の人達からは「野田ベコ」と呼ばれ、野田からのルートを「野田ベコ 塩の道」と称するのである。

今、牛の群を追う牛方が歩いた道を辿るイベントや塩焚き体験が盛んに行われているが、明治38年の専売制から遅れること5年、明治43年にすべての製塩は廃止されたのである。