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 史跡紀伊国分寺跡のこと

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年6月17日

史跡紀伊国分寺跡のこと

和歌山県町村会長 打田町長 根来公士

わがまちは紀の川中流域に展開し、北は大阪府に接し、関西国際空港まで20キロメートルの位置にある何の変哲もない田園地帯でありますが、全国に誇りうるものと云えば「史跡紀伊国分寺跡」です。

15年の歳月をかけて、その保存整備に取り組んできましたが、間もなく完成する広大な史跡公園の姿に道行く人々が目を留めています。

史跡紀伊国分寺にかかる経緯をたどってみますと、昭和3年2月7日和歌山県那賀郡池田村東国分に位置する紀伊国分寺跡が国の史跡として指定を受けた、と記録されていますが、昭和48年度から50年度にかけて現国分寺本堂周辺における発掘調査が県教育委員会によってなされ、国分寺本堂周辺2二町(約200メートル)四方が紀伊国分寺跡(国分僧寺跡)であることが判明しました。

打田町は紀伊の古代の交通路のひとつである南海道沿いにあったことや、肥沃な土地をもつ紀の川流域に展開し、大和、河内、和泉といった畿内先進地域に境を接していたため、これら地域の文化を享受する適地であったことなど、古くから拓けた地域でありました。

天平13年(741年)聖武天皇は、仏教の功徳によって政界の不安を除き、相次ぐ天災地変から国家を守ろうとしました。この鎮護国家の思想に基づいて、諸国に国分寺・国分尼寺の建立の詔を下しました。紀伊国分寺に関する主な文献『続日本紀』には、756年当時、紀伊国分寺が寺院としての内容を整えていたことを示す記述があります。

前述の発掘調査により、史跡紀伊国分寺跡は、2町4方の寺域内に、南北の中軸線上に南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧房が並び、講堂の前庭左右に鐘楼・経蔵が配され、塔は中門を入った東側にあり、四囲回廊をめぐらした独特の伽藍配置であることが分かりました。塔は心礎のほか、16個の礎石がほとんど旧状を保っています。金堂は創建期の瓦積基壇の上に平安時代に再建されました。講堂の上に現本堂が元禄年間に建築されており、講堂は元慶3年の火災以来再建されずに終わったようであります。

昭和62年に至り、打田町では、この貴重な遺跡を保存整備し、人々がふるさとの歴史や文化と触れ合い、これに慣れ親しむ場所として利用していくために、その保存整備事業を実施することとなりました。同年4月28日紀伊国分寺跡環境整備委員会を設け、その事業化にとりかかりました。昭和63年4月26日史跡追加指定をうけ、指定面積は43,321平方メートルとなりました。同年7月29日本堂を町文化財に指定、同年12月6日文化庁の補助事業として本堂修復事業に着手、平成3年3月30日創建時講堂跡基壇造成復元工事を含め、本堂修復工事が完成しました。倒壊寸前になっていた本堂は、見事に蘇り、欅の大柱の数々もそのまま復元に利用できたことは幸いでありました。

また、史跡の公有地化については、遺構全体をカバーできる区域約3万平方メートルを平成元年度から文化庁の認可を得て史跡土地先行取得事業として実施しました。公有地化は途中地価の高騰がありましたが、平成11年度終わりました。各遺構の基壇造成復元工事等の保存整備事業についても、史跡公有地化と併行して進めてきましたが、このたび完成をみるに至ったものであります。

今後、この史跡公園が、隣接地に建設されている歴史民俗資料館とともに、子どもから大人まで町民の学習と交流と憩いの場として大いに役立つことを期待しています。また今から1250年前に、この地にすばらしい文化が存在したことを誇りにし、これからの町づくりに励みたいと思います。全国の皆さんの御来訪を心からお待ちしています。