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 大地震災害を体験して

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年6月3日

大地震災害を体験して

東京都新島村長 出川長芳

東京から太平洋上を南に150キロメートル、伊豆諸島のほぼ中央に位置し、ミレニアムの夏に大地震災害を被った新島村長です。

災害の際には全国のみなさんから心温まるお見舞いと激励を賜り誠にありがとうございました。友島三宅島の方々は1年半経過しても帰島できずご苦労されていますが、その他の島々では復旧復興が急ピッチで進められている。バブルがはじけたあとの日本経済は21世紀を迎えて成長と集中神話が大崩壊し、失業率が5パーセントを超え、進化のプロセスだけでは説明できない先行き不透明な社会構造となり、時代の恐怖となっている。

その一方では便利と快楽を追い求め、腹を空かしてから食べるという辛抱を忘れる世相が続き、科学の進歩にどっぷりつかって暮らしてきたが、ある日当然大地震災害にみまわれた。20世紀最後の夏、三宅島の噴火災害に始まった地震は7月1日に神津島に飛び火し大災害をもたらした。地震から5日後に船を仕立て神津島に渡った。

山々が大崩落し島民は兢々として落ち着きを失い大災害の恐ろしさに唖然とした。目を底に落とし指揮疲れした山下村長の手を握って激励し帰島したが、正直なところその時点で地震はもう終息したものと判断した。ところがそれから10日後の7月15日の朝、新島近海を震源とする震度6弱の大地震が発生し、その後約1ヶ月間震度1以上の地震が約3,500回発生し、島は時かまわず揺れ続け大災害を被った。まさか自分の島に大地震が発生するとはまったく考えていなかった。それ以降、猛暑の中で災害対応に明け暮れたが、発生当初は全住民が連帯と共助の絆で結ばれ地震に立ち向かっていたが、いつになっても「この状態がまだ暫く続くでしょう」の繰り返しコメントしか発表しない気象庁に苛立ち、鉾先を村長に向けはじめ、「郵便ポストの赤いのも、地震を起こしているのもすべて村長だ」とばかりにお叱りを受けることになった。耐えきれず藁にもまる思いで毎朝某テレビが放送する、あなたの今日の運勢を見ると、「牡羊座、信頼していた人に裏切られ、今日も苦しい1日でしょう」とテレビ迄罵倒するのだった。貴重な本誌に過ぎ去った体験を記述するのは適正を欠くが、あえて同僚の町村長さん達に申し上げたいことは、言い尽くされていることだが、どんなに科学が進歩しても天変地異、災害は必ず来襲すると言うことを訴えたいのです。すでに気象庁はまだ発生もしていない地震に「東海地震」と命名しているではないか。

住民に避難勧告を出し1人の犠牲者も出さずに避難所に収容して一息ついた時に、もしも東京近郊で大地震が発生したらどういうことになるのだろうか、と最悪の結果が頭から離れなかった。

秋を迎えて石原東京都知事が自衛隊との合同防災訓練を実施し、その賛否がテレビや新聞で報じられたが、「ノウ」と言った人達は命が惜しくないのだろうかと思った。大災害時には助けてくれる人がたとえどんな人であっても嬉しいと思うのが災害現場だ。平穏な暮らしに甘えることなく時にはもっと危機意識をもって万が一に備えることが必要だ。

大地震災害に遭遇し貴重な行政体験をしたが、新島村が実施した対応の幾つかを挙げてみた。参考に供していただければ幸甚だ。

1、大災害時には広域的支援体制が必要だ。
2、避難住宅に仮設住宅を設置せず、1.5ヶ月間の工期で恒久住宅を設置した。
3、住民とマスコミに対し毎日「災害対策本部からのお知らせ版」を発行し周知と一体化に努めた。
4、義援金は迅速に個人と被害を受けた産業団体に全額分配した。

国や東京都の絶大な支援のもとで復旧は急ピッチで進み、1年半後には日本の離島で最大延長の約3千メートルのトンネルが貫通する。

ご支援に対して改めて感謝したい。