山口県福江村長 末永昇
本州西端の日本海に面したところに、かつて毛利36万石の城下町として栄えた萩市があります。その北端に接して我が福栄村が位置しますが、更に村の北端に接する阿武町との境界近くの大葉山の麓に「大板山たたら製鉄遺跡」があります。
平成2年から3年間にわたり、山口県文化課や山口県埋蔵文化センターのご指導と島根大学の葉賀先生のご協力のもとに専門的な調査と発掘を進めて来ました。その結果、県内では最大の規模で、しかもほぼ完全な形で原型を見る事ができ、全国的にも貴重な遺跡である事が判明しました。
今を遡る事240年、宝暦年間(1715~1764年)に稼業したと言われ、その後は50年後の文化年間、最後は安政年間と3度にわたり(一稼業期間は10年)操業されて、当時の武具を始め農具や生活用品のための鉄文化に貢献した訳であります。
最後は明治維新の大業に活躍した長州藩建造の“庚申丸”の鉄材に使われたと毛利家文庫の“大艦制造一件沙汰控”に記されております。
山口県における製鉄の歴史は、我が国の中でもかなり古くから始まった形跡があると言われていますが、旧長門の国の阿武郡や美祢郡一帯は良質の原料に恵まれていて、鉄資源が豊富である事も一因でしょうが、豊富な木材資源がある事も理由の1つに上げられています。
しかし、江戸時代になると全国的にたたら製鉄技術が完成し、永代炉の時代になると防長二州はその中心地から外れ、鉄生産は衰退していきますが、良質の砂鉄に恵まれなかった事が原因と思われます。それでも豊かな木材資源を利用して各地で細々ながら製鉄が行われていたと言われています。
この時期のたたら製鉄の特徴は、江戸時代初期の黒川山(長門市)、渡川山(阿東町)、白須山(阿武町)、河原御立山(油谷町)など文化・文政期の藩営炉を除いて、すべて石見地方の鉄山師により、原料の砂鉄を山陰の船便を利用して石見地方から搬入しているのであって、これはあえてコスト高の原料搬入を行ってまでも豊富な木材資源を利用したためと言われています。従ってこの時期の炉場は、日本海の港に近い深山で多くが営まれております。
萩藩は逼迫した財政を再建するために、米、紙、塩、蝋(防長四白)を早くからその統制下に置いたが、文化11年(1814年)からは河川村(豊北町)などで、領内砂鉄の供給を計り、同十四年からは白須山において藩営の炉場を開設したが、実態は萩城下の商人の請負であり、開設に当たっては産業スパイを津和野領に派遣し、経営のノウハウを手に入れようとしたものの、経営は軌道に乗らなかったと言われています。
しかし、その後期間を置いて再び白須山で藩営の炉場を開設したが、幕末期には職人や技術者は従来どおり石見の鉄山師に依存したものと考えられます。
大板山製鉄遺跡の周辺に散在する多くの墓にも石見の国の住人と刻まれているのを見ても推測されます。
当時の藩政は、自国産の鉄の増産と販売統制を強化し、富国強兵の重要性を柱として、鉄生産を拡大させていったものと思われます。
江戸末期から明治の初めにかけての激動の時代に防長2州の果たした役割と、それを支えた鉄のもつ意味を考える時、毛利藩最大の製鉄炉場の“大板山たたら遺跡”は当時としては藩内最大の先端産業であったと想われる。この事業に英知を傾けた先人達に思いを起こすと同時に、明治維新の大改革や敗戦後の改革に劣らぬ改革が求められている今日、幕末の時代にひそかに力をたくわえ偉大な改革を成し遂げた歴史を今一度振返り感慨も新たなものを憶えます。