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 先人に学んで今日を創る

印刷用ページを表示する 掲載日:2002年3月18日更新

長崎県芦辺町長 大皿川恵

昭和62年町民多くの人たちに勧められ町長に立候補し、無投票当選の栄誉を与えられた。59歳の時のことである。

助役からの転身で行政の長としてはゼロからの出発であった。喜びと不安とが交錯する中の船出から歳月は流れ、町長職4期目もあと1年余りとなった今、過ぎし日々に思いを馳せると幾多の人々の支えがあったことに感謝せずにはいられない。

とくに先人の残した知恵、勇気、教訓は何よりの財産であり、そのことが困難にぶつかり、岐路に立たされた時の勇気の源にもなったと感謝している。とくに、

◎弥生の都、一支国の王都発見

2200年前の歴史を静かに語り始めた「原の辻遺跡」は、今まさに発掘が本格化したばかりである。王都発見は、我が町に一大都を築いて発展した証しであり、これら弥生の先人の意気が脈々と現代の町民に受け継がれていると言ってよい。当時大陸との交易を行っていた等のことは、今考えてみると途方もないことであり、勇猛果敢な行動は学ぶべき点が多々ある。これからの行政が目指す、他地域との交流を拡大し、島特有の歴史遺産や、恵まれた自然をメディアを使って発信し、島の発展につなげなければならない。

◎蒙古襲来・総大将少弐資時の奮戦

今からおよそ720年前のことである。

文永の役、弘安の役と2度にわたる蒙古軍の襲来によって、壱岐はほぼ全滅の状態になった。その時の総大将少弐資時は太宰府の命を受けて雲霞のごとき蒙古軍を我が町瀬戸に迎え撃ち壮烈な最期をとげた。その魂は部下を守り民百姓を擁護せんとする一大決心で、町民の生命財産を護るべく行政の長の責務に通ずるところがある。

◎日本の電力王松永安左ヱ門翁

隣町の出身ではあるが、生涯日本の電力業界に大きな影響力を持ち続け、今日の電力地図を確立した偉大な人で、生涯現役、不屈の信念は学ぶべきところが多い。

町長を四期もつとめていると職責上決断を迫られた事件が数多くあったが、その時々にこれ等先人の遺訓を糧にして切り抜けることができたと思う。中でも、

◎大手量販店「ダイエー」の進出に反対運動

平成2年ダイエー壱岐上陸、しかも芦辺町に進出という話しが具体化すると、たちまち各所から反対の火の手が上った。まさに島をあげての反対運動であった。世論が騒然とする中、町議会でも議論が激化し行政トップの決断が迫られたが、立地に向けて対話を重ねるにつれて議会、住民の理解を得るに至った。現在は優良店として島内消費者に喜ばれる存在になっていることは大きな喜びである。

◎町の中心街を通り抜ける主要地方道拡幅改良計画の挫折

「市街地を通さば街はさびれる」、「住家の立退き不可能」等の強硬な意見が飛び交う中、事業促進を願う町も、事業主体の長崎県も八方ふさがりの状況に立ち至った。

私も市街地の現道拡幅が良策と考え、地域の幹部とも協議を重ね、立退き対象住家35戸を1戸1戸訪問し夜明けまで説得を重ねたが同意を得られない。眠れない日々が続いた。

このままでは県もこの改良から手を引かざるを得ないところまで追い込まれ、いよいよ取り残される羽目になると判断、バイパス道建設に方向転換をし地域役員との困難な協議を経て、2本のトンネルによって全線改良にこぎつけ、事業費45億円、8年の歳月をかけて完成、去る平成13年12月19日開通式を迎え感涙一入のものがあった。

行政トップに課せられた宿命とは言え、近年の社会情勢には難しい問題に直面することが多々あるが適確な判断と時機を失しない決断が要求される。国の内外の情勢を見極め、住民本位の行政を、勇気をもって誠実に実行し、町長職を全うしたいと願っている。