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 洪水に学ぶ

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年11月12日

京都府大江町長 佐藤克巳

大江町は、京都府北部に位置し、「明智光秀の城」のある福知山市、日本三景の1つ「天の橋立」のある宮津市、「岸壁の母」で知られる舞鶴市、「足利尊氏誕生の地」である綾部市、この地方四都市に囲まれた人口5,7000人の過疎に悩む小さな農山村である。

昭和26年4月、隣接し密接な関係にあった1町5ヵ村が合併して誕生した。町名は、「むかし丹波の大江山、鬼ども多く……」と小学唱歌に歌われた「大江山」に因み、「大江町」と命名した。今年、半世紀を歩み続けて50年の大きな節目を迎えている。

町の地勢は、北に大江山と、伊勢神宮のルーツ元伊勢の内宮、外宮が鎮座し、中央には一級河川の由良川が貫流している。

およそ町づくりは、その町の地理的条件を基盤としなければならぬと常々思っているが、中央を流れる由良川は、河口に近く最下流に位置する盆地であるため勾配緩く、度々氾濫し、毎年の如く水害が発生し甚大な被害を受けている。「山峡の0(ゼロ)メートル地帯」、水害常襲の町と呼ばれてきた。被災回数は、昭和28年の台風13号を頂点として今日までに50回を数え、その内、実に六回に及ぶ災害救助法の適用を受けている。正にこの半世紀は水害との闘いの歴史であり、産業の振興並びに人口の定着は著しく阻害されてきた。発足当時の人口は約12,000人であったが、昨年の国調では5,705人に半減し、過疎の歯止めができぬ大江町にとって、水に強い安心安全の町づくりは、今も町政の最大の課題である。現在、平成元年に建設省(当時)、京都府、大江町の三者で策定した「21世紀を目指した我が町の河川整備構想(あしぎぬリバー構想)」により治水工事が進捗し、「水に強いまちづくり」が着実に進められている。

ところで、私は合併当初から役場職員として土木を担当し、洪水の予報、災害復旧などの建設の職務にあたっていたことから、水に寄せる思いが強く、浅学を顧みず水に関する書物にふれることが多く、今日の現職にあって残念ながら、水以外のことはあまり判らないという行政音痴である。既に40年の星霜がすぎたが、今も忘れることのないのは、昭和36年新春の仕事始めの席上、当時の岡垣町長が職員に色紙を配られた。その色紙には、「水の五則」が書かれてあった。

1.自ら活動して他を働かしむる者は水なり。

1.常に己れが進路を求めて止まざる者は水なり。

1.障害に逢ひ激しく其の勢いを百倍する者は水なり。

1.洋々として大洋を充し発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪となり、凝って玲瓏(れいろう)たる鏡となり、而も其の性を失わざる者は水なり。

1.自分を清め他を洗い清濁併せ入るる者は水なり。

福岡藩主、黒田官兵衛(号は如水)の教えである。

当時36才であった私は、この五則に深く感動し、こうした水の姿というか水の有様を、自分の生きる指針として実践したく思い、今もこの色紙を保存して、折にふれ、又、仕事の節目にこの五則を読んで、自らを戒めている。又、町内で由良川の氾濫の際、最も早く人家が浸水する50戸の集落、新町の公会堂にはこの五則が記された古びた額が掲げてある。明治の頃のものと思われるが、水害と闘いながらも水に学んだ先人が偲ばれて、その心意気に感動し、深く敬意を表している。

今、我が町では、前述の「あしぎぬリバー構想」による治水事業が大きく進み、水害の暗いイメージを克服しつつ、「大江町の鬼伝説」活かした個性ある町づくりを進め、昨年10月には日本の鬼の交流博物館を天皇皇后両陛下にご視察賜り、町史に輝く大変な栄誉に浴したところである。

擱筆にあたり、諸賢のご指導を切にお願いする。