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 量入制出(いるをはかりいづるをせいす)

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年10月8日

兵庫県津名郡一宮町長 上田弘

8代将軍吉宗の時代、当時は今の様に近代的な金融資本の社会ではなく、未成熟な農業経済社会であったが好況、不況は存在していた。

元禄の好景気から享保の不景気へと米の値段は下落を続けたが、当時は侍の給料がすべて米で支払われていました。米が下落すれば侍の生活は困窮する。吉宗は米公方(こめくぼう)と呼ばれる程米価の上昇に努力したのでありますが、残念ながら米の値段はすべて、「市場」の中で需要と供給のバランスで決められる事を知らず、米相場を操る一部の米問題を儲けさせるだけで、侍も町民も苦しい生活を強いられ結局失敗に終わりました。吉宗は倹約の励行や五公五民(ごこうごみん)のきびしい税制、新田の開発、養生所の開設など、幕藩体制のたて直しを図りましたが、矛盾は体制そのものの中にあってそれの解決なくして改革の成功はあり得なかったと言える。

その時、吉宗の経済顧問であった細井平洲(ほそいへいしゅう)が数々の経済政策を実施する中で、「入るを量り、出るを制す」の名言を残した。今日に至るまで家訓や社訓として語りつがれてきた言葉である。平洲は「家でも国でも、その費用はいつも決まった通りにはならない。手元不如意(てもとふにょい)の時は倹約の政治を心がけ出費を減らすこと。欲しいものを買うのではなく必要なものだけ求めることだ」と言う。

この財政運営の指針とも言うべき教訓は、紆余曲折に怯ることなく、後々(のちのち)まで幕藩財政の運営堅持に活かされた。

こう記述されている。

目を転じて現代をみますと、昔と今の社会構造は大きく異なり、人間生活は著しく進歩した。行政も然りである。幕府は今の内閣に相当する。徳川時代に制定された幕藩政治、そして、明治から平成の今日に至る百数十年にわたり続けられてきた中央主導型政治、いわば中央集権、昔と今の政治手法に隔たりはあるものの、行財政を中心に地方から中央、つまり国への依存度は薄れることなく行政需要が満たされる反面、財政出動が重なり、財政の硬直化を防ぐ手段の選択が求められているのである。

一方では昨年四月に地方分権一括法が施行され、いよいよ地方の時代、本番に入りました。地方の自主、自立を図り、個性豊かな地域社会をつくるための画期的な施策です。国と地方上下の関係から対等の関係へ、国の指導による受け身的行政から住民本位の能動的行政へ、等々、民主政治の原点である主権在民の体制へ移行しようとするものです。

今までは、国の方針にさえ従えば良かった。依存体質から、住民自らが創意し、汗を流し、責任を持つ、いわゆる自ら治める自治体にならなければならないのです。このため、市町村へ権限移譲される事務量が相当件数に上り、税財源の不透明な点が気がかりなところです。

それにしても急速に進む少子高齢化、国際社会の到来、住民の価値観の多様化、情報化の進展と言った社会経済の変化は、国、地方を問わず大きく関わりをもつことになり、将来展望に立った施策の推進こそ21世紀の幕開きとなりましょう。

いまこそ子孫に悔いを残さない、郷土(ふるさと)の建設に知恵と工夫を凝らし、住民参加の総行進を続けたいものです。

自治体財政は年々緊迫してきており財政たて直しに期限の余裕はなく、「細井平洲の名言」から教わる欲しいものを買うのではなく、住民が望み、必要とする施策の展開が肝要で、これであってこそ行財政運営の効率化、健全化はもとより痛みの伴う財政のたて直しにも住民の理解、協力が得られ許されるものとなりましょう。 

複雑な国際経済社会の今の世の中、若し平洲が生きていたらやはり「欲しいものと、必要なものをはっきり見極めてから買いなさい」と言うに違いない。

「量入制出」享保の改革に学ぶところ多し。行政の進め役として肝に銘じ、研鑽を重ねるのみである。