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我が町は今

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年10月1日

山梨県町村会長 上野原町長 奈良明彦

「道路交通情報、中央自動車道は、鶴川大橋を先頭に20キロの渋滞」高速道路を利用する人にとっては、耳なれた言葉であると思います。上野原町は、山梨県の東端に位置し、東京都と神奈川県に隣接した人口27,700人余りの典型的な河岸段丘の地形と山紫水明の自然豊かな町であります。明治34年に中央本線の上野原駅が開設され、その後、昭和44年に中央自動車道が開通、平成四年には上野原インターチェンジも開設され、本町の産業や経済を飛躍的に発展させてきました。並行して中央自動車道の渋滞する日も年々増加してきましたが、中央自動車道の6車線化計画が進められ、上野原インターチェンジから談合坂サービスエリアまでが本年3月に完成し、交通渋滞も緩和されつつあります。

その昔、甲州街道の宿場町として、上野原宿、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿の四宿を擁し、江戸と甲信地方を往復する重要拠点として、また、甲斐絹を中心とした織物の町として人々の暮らしや経済を支え栄えてきました。

昭和30年に1町7ヶ村が合併して、今の上野原町が誕生しましたが、その後、町を支えてきた織物業が衰退していく中で、機械工業が躍進し、県内を代表する先端技術産業の町へと変貌してきております。一方では、京浜地区のベットタウンとして、多くの人が都心に通勤しております。

昭和40年から50年代には、日本一の夫婦そろった長寿の村といわれた棡原地区に、多くの学者や専門家が訪れ、長寿の研究や秘訣など科学的な調査も行われ、各方面からの話題となり、マスコミを大きくにぎわしてきました。しかし、車社会の発達は、地域の人々から歩くことを奪い、社会環境の変化などによるストレスが、若い世代にまで及び、今では長寿村ではなくなっています。

私は、昭和62年の5月に町長に就任し、若者定住と地域の活性化のため、新たな産業の掘り起こしと、緑豊かで山紫水明の町を生かした産・学・住・遊のバランスのとれたまちづくりを目指し、大学の誘致や民間活力による2つの工業団地と、大規模住宅団地(コモアしおつ)の建設などを進める一方で、遅れていた各種基盤整備や義務教育施設の整備を進めるなど“楽しさ、心地よさを育む「アメニティタウン」うえのはら”の実現に取り組んできたところであります。

こうした施策の1つとして、平成10年の11月から近隣の3町村で公の施設の相互利用をはじめました。それぞれの町村が同様な施設を作るのではなく、隣接する県域を越えた町村が、不足する施設を補完しあうとともに施設の有効利用を図ることで、行政コストを抑え、質の高い住民サービスをねらいとしています。住民以外の人が、有料の施設を利用する場合、割増し料金をいただいていましたが、この相互利用により、それぞれの住民と同じ料金で利用することができるようになり、多くの町民が活用しております。

また、少子・高齢化や情報化などの社会の潮流や地方分権の進展に伴い、単独市町村では解決できない課題に取り組むため、平成11年の9月から2市1町4村による特別地方公共団体「山梨県東部広域連合」を発足させました。広域計画の策定や養護老人ホームの管理運営、介護保険の認定作業などを始めとした業務を行っておりますが、今後は、広域行政のメリットを生かし、より効率的な行政運営を推進していきたいと考えております。

今、地方分権や町村合併問題が大きく打ち寄せてきておりますが、まずは、日頃の行政運営を近隣の市町村と協力していく中で、できることから着実に進めていきたいと考えております。