ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップページ > 町村長随想 >  創業は難く守成も難し

 創業は難く守成も難し

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年8月6日

創業は難く守成も難し

東京都青ヶ島村長 佐々木宏

悲惨な戦争や民族主義の台頭による地域紛争の激化など、戦いに明け暮れた不幸な世紀が終わり、希望に満ちた21世紀を迎えようとしている矢先、伊豆諸島の島々は噴火、地震災害に見舞われ甚大な被害を受けた。三宅島の噴火に始まり、神津島、新島、式根島では震度六弱の強烈な地震が相次ぎ、神津島では犠牲者も出た。発生から1年、全国の皆さんからお見舞いや激励、国、東京都の迅速な対応により、神津島、新島は復旧から復興に向け急ピッチで基盤整備が進められている。しかし、三宅島の島民約3,800人は集団避難して1年が過ぎた今でも、都内を中心に全国各地で不自由な避難生活を余儀なくされている。

青ヶ島は東京から南へ360キロ、伊豆諸島最南端に位置し、人口200人が住む全国最小自治体である。離島の中でも珍しい二重式カルデラ火山の島で、今でも噴気孔が無数に存在し、噴気が立ち昇っている。記録を見ると200年周期で噴火を繰り返す火山島といわれており物騒な島でもある。

今から216年前、天明5年(1785)かつてない大規模な噴火により、300人を超える島民すべてが八丈島に脱出を試み、無事たどり着いたのは202人、130人以上の人は逃げ遅れて命を落とすという大惨事となり、天明の別れとなった。

八丈島へたどり着いた島民は、大里の地に身を寄せ長年に渡り苦難の避難生活を余儀なくされたが、青ヶ島へ早く帰りたいという島民の思いに、当時の名主三九郎は幾度となく青ヶ島への還住を試みるも、黒潮本流の流れで房州や紀州に流され、多くの犠牲者を出した。

寛政9年(1797)7月、名主三九郎は、青ヶ島復興のため男女14人を乗せ八丈島を出港するも、時化に遭遇して8日間も漂いつづけ、紀州二木島に漂着するも、三九郎以下11名全員が落命した。

以後、数十年無人島になったが、文化14年(1817)佐々木次郎太夫が名主となり、青ヶ島復興の願い書が取り上げられ、天保5年(1834)、青ヶ島の島民全員が悲願の「還住」を果たした。

我々の祖先が、長い苦渋に満ちた時を経て還住を果たした青ヶ島は、“還住魂”で復興し明治14年(1881)には754人と島開闢以来最大の人口を記録している。

青ヶ島は「20年遅れの開発」と言われながらも、多くの方々のご支援により“水と光”を手に入れることができた。雨水から簡易水道に、ランプの暮らしから電気の生活へと変わり、平成5年8月よりヘリコプターによる定期空路も開設され、大洋の孤島として本土から切り離され、最低限の交通を確保するのに精一杯だったこれまでとは大きく変わり、島に住んでいて殆ど不便を感じない。

現在、青ヶ島の人口は201人、全国で1番小さな自治体であるが、高齢者比率は17%台を維持し、平均年齢三十五歳と若い島である。島の産業は和牛を中心に焼酎、観葉植物、パッションフルーツ栽培や、火山の島の利点を生かし、地熱を活用して開発された「ひんぎゃの塩」自然塩は発売から好評を得、今では注文に応じきれない状況である。

しかし、周囲を海にかこまれ、絶好の豊かな水産資源を持ちながら、昭和40年代よりこれまで、港湾整備の努力が図られてきたにもかかわらず、厳しい自然条件下、整備が大きく立遅れている。村民の長年の悲願であった貨物船の接岸は昨年6月実現したが、豊かな水産資源を島の振興に活かす拠点としていくために、漁船等の泊地を持った本格的港湾整備が今後の課題である。

昨今、地方分権、町村合併等改革が進む中、小泉内閣が発足し、「聖域なき構造改革」を掲げ、地方交付税制度の見直しや、過疎地等への手厚い交付を改め、客観基準で配分する仕組みに変えると言っているが、到底容認できるものではない。

我々の祖先が幾多の困難を克服し、守り続けてきた郷里を、単独自治体として継承していくことは我々に課された責務である。

私は、そこに住む人、訪れる人、そして滞在する人が交流しながら、常に新しい発見と体験ができる確かな基盤と、安全で快適な環境を備え、小さいけれどもまとまりのよい島、新しい桃源郷をこれまでの積み重ねの上に創造していく所存である。