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 五十年の星霜と心の世紀を迎えて

印刷用ページを表示する 掲載日:2001年7月30日

山形県舟形町 鈴木勝治

本町は、山形県の東北部国道13号線と47号線の交通の要衝地に位置し、「若あゆと古代ロマンの里」に象徴されるように、豊かな自然に恵まれた町です。

夢想だにせぬ大東亜戦争終結となり、昭和20年10月、憧れの海軍飛行予科練習生として2ヶ年の体験を経て復員、戦後、経済的にも困窮極りなき世相の昭和22年3月、舟形村職員として就職。  

当時は、食糧難に加え、燃料事情も乏しき折、当舟形村は全国的にも有数の亜炭産業の村として栄え、県内外の官公所もことごとく使用した時期であった。炭坑数132ヶ所で働く労務者の待遇も良好で、役場就職は、むしろ敬遠される中、私は二男でもあった関係上、請われて職員となりました。

以来、舟形(村)町に奉職し、50年(途中4年の空白がある)を迎えました。舟形(村)町と歩んできた歴史を顧みる時、時代の流れは早く隔世の感を覚えます。

昭和29年12月1日旧舟形村人口、10,000人と旧堀内村人口、2,000人が合併し、12,000人の舟形町が誕生しました。更に当時は、帝国石油(株)採油の内陸油田として脚光を浴び、前述の亜炭産業と並び「3尺掘れば亜炭」「100尺掘れば石油」が出ると言われ、地下資源の宝庫として全国的に名声を博しました。

本町の母なる川「小国川」には、香魚、鮎が生育しており、明治14年9月に明治天皇が御巡幸の折、献上したところ「日本一の鮎である」と称賛されたと言われ、以来ふながたの「松原鮎」の名で全国的に有名になり、毎年7月1日の解禁日から連日全国各地からの太公望で振わいます。そして清流小国川沿いの「西ノ前遺跡」から平成4年8月、高さ45センチの日本最大の土偶が発見されました。縄文時代中期(約4500年前)のものと見られ、足が長く、胸やおしりが豊かで、スマートな八頭身の美人女性を連想させます。文化的にも芸術的にも高度な土偶が出土した背景には、自然に恵まれた当時の豊かな営みをうかがい知ることができます。

昭和63年2月収入役の職を退任後、約4年間社会福祉法人経営の身体障害者施設の園長を経て、平成4年2月の町長選挙に立候補し、町民の力強いご支援と温かい励ましにより当選の栄に浴し、引続き2期、3期連続無投票により新世紀初頭の町政を担っている次第です。

町長選立候補当時は、医療、福祉、教育の分野で切実な町民の願望がありました。町長就任と同時に、医療については舟形駅舎に画期的な公設民営の診療所を創設、福祉は高齢化社会の到来を見据えて、特別養護老人ホームを、私が以前勤務した法人経営の下に建設致しました。

しかし、教育は30年来の教育課題である中学校の統合でありました。平成5年から平成10年4月1日統合までの道程は、誠に厳しいものがあり、一部反対住民の提訴により裁判にまでなりましたが、自らも昼夜を問わず話し合いと説得を続け、賢明な良識ある町民の輪が拡がり、裁判取り下げ、円満統合実現は、大きな喜びであり、私にとって生涯忘れることは出来ないでしょう。

私は、半世紀この道一筋、ただ、ひたすら町民を信頼し、町民の声を礎に誠実と決断で反映してきました。限りない多くの人との出逢いと交流の積み重ねを糧として迎えた21世紀の節目、初心を忘れることなく、新たな情熱と行動力を発揮してまいりたいと思います。

継続は力なり、毎朝道路沿いの空缶と、ゴミ収集が日課で、3粁先まで足を延ばすこともある。春から秋にかけての早朝は、趣が一変する清々しさを受け、町民と声をかけあう喜びもある。1日の仕事が始まり、徒歩で八時頃には登庁し、日記をつける習慣も変わらない。毎日の健康法は、米酢、根昆布は欠かした事がなく、青竹踏みも継続している。

21世紀は、心の世紀と言われ人々の多様性と独創性が発揮できる社会、自立の時代を形成することが肝要とされております。

今後も第5次基本構想に基づき、“人、環境、未来ふながた21”の創造に向けて全力を挙げて取り組んで参りたいと思います。